【ライアン・ギグス】プレースタイルとマンU栄光の軌跡を徹底解説

サッカー

マンチェスター・ユナイテッドの歴史の中で、最も偉大な選手の一人として語り継がれるライアン・ギグス。

現代サッカーでは選手が複数のクラブを渡り歩くことが当たり前となっています。

しかしギグスは、17歳でトップチームデビューを果たしてから、40歳で現役を引退するまでの24シーズン、一つのクラブに忠誠を誓い続けた姿は、現代サッカー界では極めて稀な存在です。

オールド・トラッフォードを唯一の本拠地とし、赤いユニフォームに袖を通し続けた24年間。

その間でプレースタイルを変化させて、クラブの象徴までたどり着いたギグスを今回は徹底解説していきましょう!

ライアン・ギグスのプロフィール

ライアン・ギグスのプロフィールはこちらです。

ライアン・ギグスのプロフィール
  • 本名:ライアン・ジョゼフ・ギグス(Ryan Joseph Giggs)
  • 生年月日:1973年11月29日
  • 出身地:ウェールズ・カーディフ
  • 身長:180cm
  • 体重:67kg
  • 利き足:左足
  • ポジション:ミッドフィルダー(左ウイング、左サイドハーフ、セントラルミッドフィルダー)/ フォワード

ライアン・ジョゼフ・ギグスは、利き足は左足ですが、利き手は右という特徴を持っています。

この身長と体重のバランスは、スピードと技術、そしてフィジカルコンタクトにおいて理想的な組み合わせでした。

ウェールズ代表として64試合に出場し12ゴールを記録しましたが、W杯や欧州選手権には一度も出場できなかったという、才能に恵まれながらも代表チームでの栄光には恵まれなかった選手でもあります。

ウェールズという小国の代表であったため、個人の才能だけでは国際大会への出場が叶わなかったのです。

しかし、クラブレベルでの成功は、その代表での不運を補って余りあるものでした。

ライアン・ギグスのプレースタイル

ライアン・ギグスのプレースタイルはこちら。

ライアン・ギグスのプレースタイル
  • 圧倒的なスピードとドリブル突破力:若い頃は左サイドから爆発的な加速力で相手ディフェンスを置き去りにするプレーが持ち味
  • 高精度のキーパスとスルーパス:相手ディフェンスラインの裏を狙う正確なパスで多くのアシストを記録
  • 優れたクロス精度:左サイドからのピンポイントクロスでストライカーにチャンスを供給
  • ボールを体の中心に置くドリブル技術:左右どちらにも仕掛けられる独特のドリブルスタイル
  • 守備への高い貢献度:攻撃的ポジションながら守備意識が高く、攻撃参加後も素早く自陣に戻る献身性
  • 抜群の安定感:24シーズンを通じて大きなスランプがなく、常に一定以上のパフォーマンスを発揮
  • 複数ポジション対応の適応力:左ウイング、左ミッドフィルダー、中央ミッドフィルダー、時には右サイドでもプレー可能
  • 年齢に応じたプレースタイルの進化:スピード重視から技巧派へ、さらに司令塔タイプへと変化し続けた柔軟性
  • 切り返しを使ったドリブル:ベテランになってからは緩急を使い分け、相手のタイミングをずらす技術が向上
  • 試合を読む力と戦術理解度:経験を重ねるごとに試合全体を俯瞰する能力が高まり、チームをコントロール

ライアン・ギグスのプレースタイルは年齢によって大きく変化しています。

プレーの特徴

ギグスのプレーを特徴づける要素は多岐にわたります。

それぞれお話していきます!

若き日の高速ドリブル

ギグスのプレースタイルといえば、何よりもドリブルが外せません。

若い頃のギグスは圧倒的なスピードと技術を武器に、左サイドから相手ディフェンスを切り裂くプレーを得意としていました。

左利きの選手として、左足でのボールタッチを基本としながらも、特徴的なのはボールを体の真ん中に置いた状態でドリブルする技術です。

この独特なドリブルスタイルにより、ギグスは相手ディフェンダーに対して左右どちらにも仕掛けられる選択肢を持つことができました。

ディフェンダーは彼の次の動きを予測することが困難で、多くの名手たちがギグスのスピードとテクニックに翻弄されました。

特に1990年代のギグスは、タッチライン際から縦に抜け出すプレーを得意としており、その姿はまさに「ウィングの芸術」と称されています。

スピードとパワーを兼ね備えたドリブルは、後にトッテナムやレアル・マドリードで活躍したガレス・ベイルとも比較されることがありますが、ギグスのスタイルはスピードと技術が適度に融合した、よりテクニカルなもの。

ベイルが圧倒的なパワーとスピードで相手を置き去りにするタイプだとすれば、ギグスはフェイントと緩急を使い分け、相手を惑わせながら突破するタイプでした。

特に印象的なのは、1999年のFAカップ準決勝アーセナル戦でのゴールです。

延長戦も残りわずかとなった時間帯、ハーフウェーライン付近でボールを奪ったギグスは、そこから約50メートルの独走を開始。

パトリック・ヴィエラをかわし、マーティン・キーオン、リー・ディクソン、トニー・アダムスという当時の名手たちを次々と抜き去り、最後は左足でゴールネットを揺らしました。

このゴールはサッカー史に残る最高のゴールの一つとして今も語り継がれています。

キーパスとスルーパス能力の高さ

まず挙げられるのは、キーパスとスルーパス能力の高さです。

相手ディフェンスラインの裏を狙う精度の高いパスは、多くのストライカーにゴールをもたらしました。

特にアンディ・コール、ドワイト・ヨーク、ルート・ファン・ニステルローイウェイン・ルーニーといった歴代のエースストライカーたちは、ギグスのパスから多くのゴールを生み出しています。

守備の貢献度も高い

守備への貢献度の高さも見逃せません。

攻撃的なポジションの選手でありながら守備への意識も高く、チーム全体のバランスを保つ重要な役割を果たしていました。

左サイドでの守備対応は特に評価されており、攻撃参加後も素早く自陣に戻る献身性は、ファーガソン監督からも高く評価されていました。

抜群の安定感

安定感のあるプレーも大きな特徴です。

24シーズンという長いキャリアの中で、大きなスランプに陥ることがほとんどなく、常に一定以上のパフォーマンスを発揮し続けました。

この安定性は、マンチェスター・ユナイテッドが長期にわたって国内外で成功を収める上で、欠かせない要素でした。

複数ポジションをこなせるポリバレント性

左サイドを主戦場としながらも中央でもプレー可能な適応力も持っています。

左ウイング、左ミッドフィルダー、中央ミッドフィルダー、時には右サイドでもプレーし、チームの戦術に応じて柔軟にポジションを変えることができました。

この万能性は、監督にとって非常に頼もしい武器であり、様々な戦術的選択肢を可能にしました。

何より特筆すべきは、プレースタイルを時代や自身の年齢に合わせて変化させ、常にトップレベルで活躍し続けた適応力です。

スピードスターから技巧派ミッドフィルダーへと進化を遂げた彼の姿は、プロフェッショナルとしての在り方を示す素晴らしい手本となっています。

多くの若手選手が、ギグスのキャリアから学び、自らの長寿に活かそうとしています。

ベテランになっての進化

年齢を重ねるにつれて、ギグスのプレースタイルは大きく進化していきました。

若い頃の直線的なスピードドリブルから、ベテランになると切り返しを効果的に使ったドリブルへと変化していったのです。

30歳を過ぎてからは、純粋なスピードよりも、タイミングと駆け引きを重視したプレーにシフトしていきました。

精度の高いパスやシュートの技術を磨き、相手ペナルティエリア付近での判断力も向上。

若い頃は自らドリブルで突破することが多かったギグスですが、ベテランになってからは味方を活かすパスを供給する役割も担うようになりました。

スルーパスやクロスの精度は年々向上し、得点だけでなくアシスト数も増加していきました。

左サイドハーフやウイングとしてキャリアをスタートさせたギグスですが、晩年は老獪さを増したプレーでセンターハーフもこなす器用さを見せます。

スピードだけに頼らず、技術と経験で試合をコントロールする「中盤の司令塔」としての役割も担えるようになったのです。

ポール・スコールズの引退後は、センターミッドフィルダーとしてチームのバランスを保つ重要な役割を果たしました。

このような進化を遂げられたのは、ギグス自身の高い順応性と、常に向上心を持ち続けた姿勢によるものです。

多くの選手が年齢とともにパフォーマンスを落としていく中、ギグスは自分のプレースタイルを変化させることで、40歳までトップレベルで活躍し続けることができました。

プレースタイルの変遷と長寿の秘訣

では次に、各年代ごとでプレースタイルをどのようにギグスが変えていったのかを、先ほどの特徴を踏まえてお話していきます!

10代後半から20代前半:スピードスター時代

17歳でデビューしたギグスは、圧倒的なスピードと天性のドリブル技術で、瞬く間にプレミアリーグ屈指のウィンガーとなりました。

この時期のギグスは、左サイドのタッチライン際から縦に仕掛け、相手ディフェンダーを置き去りにするプレーを得意としています。

若い頃のギグスの武器は、何といっても爆発的な加速力。

最初の数歩で相手を引き離し、そのまま独走してゴールまで持ち込むシーンが何度もありました。

1999年のFAカップ準決勝での伝説のゴールは、この時期のギグスの能力を最もよく表しているプレーです。

20代後半から30代前半:技術とスピードの融合時代

20代後半になると、ギグスは単純なスピードだけでなく、フェイントや駆け引きを多用するようになりました。

相手ディフェンダーのタイミングをずらし、技術で抜き去るプレーが増えていきます。

また、クロスやパスの精度も向上し、得点だけでなくアシストでもチームに貢献するようになりました。

この時期のギグスは、スピードと技術、そして経験が最もバランスよく融合した、完成形のウィンガーと言えるでしょう。

2007-08シーズンのチャンピオンズリーグ優勝時、34歳のギグスは依然として世界最高レベルのパフォーマンスを披露していました。

30代後半から40代:司令塔への進化

30代後半になると、ギグスはポジションを中央に移し、セントラルミッドフィルダーとしてプレーすることが多くなりました。

スピードという武器は徐々に失われていきましたが、代わりに視野の広さ、正確なパス、そして試合を読む力が際立つようになります。

この時期のギグスは、若手選手たちを導くベテランリーダーとしての役割も担いました。

ピッチ上での声かけや、戦術的なアドバイスで、チーム全体をまとめ上げる存在となっていきました。

プレースタイルを大きく変化させることで、40歳まで現役を続けられたのです。

長寿の秘訣

ギグスが40歳まで現役を続けられた秘訣は、いくつかの要素が組み合わさっています。

まず、30代に入ってから本格的に取り入れたヨガです。

ヨガによる柔軟性の向上と体幹の強化は、怪我の予防に大きく貢献しました。

ギグス自身も

ヨガを始めてから、キャリアが5年延びた

と語っています。

食事管理も徹底していました。

栄養士と相談しながら、最適な食事プランを実行し、体重管理と体調管理に気を配りました。

アルコールも控え、プロフェッショナルとしての自己管理を徹底していたのです。

また、プレースタイルを年齢に応じて変化させる柔軟性も重要でした。

多くの選手が、若い頃のプレースタイルに固執して衰えていく中、ギグスは自分の身体能力の変化を客観的に分析し、それに応じたプレーに適応していきました。

この適応力こそが、長いキャリアを支える最大の要因だったと言えるでしょう。

ライアン・ギグスの経歴

続いてライアン・ギグスの経歴です。

  • 1990-2014
    マンチェスター・ユナイテッド

もちろん、マンチェスター・ユナイテッドだけですww

マンチェスター・シティ ユース時代(1980年代後半)

ギグスのサッカーキャリアは、意外にもマンチェスター・ユナイテッドのライバルクラブであるマンチェスター・シティのユースアカデミーから始まります。

幼少期から才能を発揮していたギグスは、地元の名門クラブであるシティのスカウトの目に留まり、ユースチームに所属することになったのです。

当時のギグスは、すでにその年代では抜きん出たドリブル技術とスピードを持っており、将来有望な選手として注目されていました。

しかし、運命は彼をライバルクラブへと導くことになります。

マンチェスター・ユナイテッドのスカウト網が彼の才能を見逃すはずがありませんでした。

マンチェスター・ユナイテッド ユース時代(1987-1990)

14歳の時、ギグスはマンチェスター・ユナイテッドのユースアカデミーに引き抜かれました。

この移籍は、彼の人生を大きく変える転機となります。

オールド・トラッフォードのグラウンド整備員が彼のプレーを目撃し、その才能をクラブに報告したという逸話も残っています。

ユナイテッドのアカデミーでは、将来「Class of 92」と呼ばれることになるデイヴィッド・ベッカムポール・スコールズギャリー・ネヴィル、フィル・ネヴィル、ニッキー・バットらと共に成長していきました。

この世代の選手たちは、互いに切磋琢磨しながら技術を磨き、後にクラブの黄金期を支える中心選手となっていきます。

ギグスはユースチームでも際立った才能を発揮し、キャプテンを務めるなど、リーダーシップも発揮していました。

1990年11月29日、17歳の誕生日にプロ契約を締結し、プロサッカー選手としての道を歩み始めることになります。

マンチェスター・ユナイテッド トップチーム時代(1990-2014)

デビューシーズンと初優勝(1990-1993)

1991年3月2日、17歳のギグスはマンチェスター・ユナイテッドでトップチームデビューを飾ります。

エヴァートン戦でデニス・アーウィンとの交代出場という形でしたが、この日が伝説の始まりでした。

デビュー戦の数日後、ギグスはマンチェスター・シティとのダービーマッチで初ゴールを記録し、ライバルクラブに華々しく挨拶しました。

1991-92シーズンには、レギュラーポジションを確立し、リーグ優勝争いに貢献。

しかし、惜しくもリーズ・ユナイテッドに優勝を奪われてしまいます。

この悔しさが、翌シーズンへの大きなモチベーションとなりました。

プレミアリーグ創設のファーストシーズンとなった1992-93シーズンでは、41試合に出場して9ゴールを記録。

マンチェスター・ユナイテッドの26年ぶりとなるトップリーグ優勝に大きく貢献し、2年連続の年間最優秀若手選手賞に輝きました。

この時期のギグスは、若きワンダーボーイとして国内外から注目を集めており、多くのメディアが「次世代のスーパースター」として彼を取り上げました。

黄金期の幕開け(1993-1999)

1993-94シーズンには、プレミアリーグとFAカップの二冠を達成し、ギグスは名実ともにクラブの中心選手となります。

この頃のマンチェスター・ユナイテッドは、エリック・カントナをキャプテンに、ロイ・キーン、ポール・インス、ギグス、ベッカムらの才能豊かな選手たちが揃い、国内では圧倒的な強さを誇っていました。

1995-96シーズンは、「Class of 92」が本格的にトップチームで活躍し始めたシーズンです。

若手中心のチーム編成を批判する声もありましたが、ギグスやベッカムスコールズらの活躍により、プレミアリーグとFAカップの二冠を達成。若手たちの可能性を信じたファーガソン監督の判断が正しかったことが証明されました。

1996-97シーズンには、連覇を達成し、マンチェスター・ユナイテッドの王朝が確立されました。

ギグスは左サイドからの突破とクロス、そしてゴールで、チームの攻撃を牽引。

この時期のギグスは、スピードとテクニックが最高潮に達しており、世界最高峰のウィンガーとして評価されていました。

歴史的三冠達成(1998-1999)

1998-99シーズンは、ギグスのキャリアの中でも、そしてマンチェスター・ユナイテッドの歴史の中でも特別な年となります。

このシーズン、マンチェスター・ユナイテッドはプレミアリーグ、FAカップ、UEFAチャンピオンズリーグの3冠を達成し、イングランドサッカー史上初の快挙を成し遂げました。

ギグスはこの歴史的な偉業の中心選手として活躍し、特にFAカップ準決勝でのアーセナル戦でのスーパーゴールは、チームを決勝へと導く決定的なゴールとなりました。

延長戦の終盤、疲労困憊の選手たちが立ち尽くす中、ギグスは約50メートルの独走ドリブルで複数のディフェンダーを抜き去り、ゴールネットを揺らします。

このゴールは「世紀のゴール」として今も語り継がれています。

チャンピオンズリーグ決勝のバイエルン・ミュンヘン戦では、怪我のため出場停止となってしまいましたが、仲間たちが劇的な逆転勝利を収め、クラブ史上2度目の欧州制覇を達成。

ギグスはベンチから、涙を流しながら仲間たちの勝利を見守りました。

新世紀の継続的成功(2000-2009)

2000年代に入っても、ギグスの活躍は衰えることを知りません。

2000-01シーズンには3連覇を達成し、2002-03シーズンには8度目のプレミアリーグ優勝を経験します。

この時期のギグスは、徐々にプレースタイルを変化させ始めており、純粋なスピードだけでなく、技術と経験を活かしたプレーにシフトしていきました。

2006-07シーズンには、クリスティアーノ・ロナウドやウェイン・ルーニーといった新世代のスター選手たちと共にプレーし、プレミアリーグ優勝を達成。

ギグスは若い才能たちを支えるベテランとしての役割も担うようになっていました。

2007-08シーズンには再びチャンピオンズリーグ優勝を経験し、2度目の欧州王者となります。

決勝のチェルシー戦はPK戦にもつれ込みましたが、ギグスも成功を収め、クラブの勝利に貢献しました。

この頃のギグスは、すでに30代中盤に差し掛かっていましたが、プレースタイルを変化させることでトップレベルのパフォーマンスを維持していました。

2008-09シーズンには、プレミアリーグ3連覇を達成し、ギグスは11度目のリーグ優勝を経験します。

このシーズン、ギグスはPFA年間最優秀選手賞を受賞し、35歳にして最高の栄誉を手にしました。

若い頃の最優秀若手選手賞と合わせて、キャリアの最初と円熟期の両方で個人タイトルを獲得したことは、彼の偉大さを物語っています。

ベテランとしての貢献(2010-2014)

30代後半に入ってからも、ギグスの活躍は衰えることを知りませんでした。

2010-11シーズンには、記録となる12度目のプレミアリーグ優勝を達成。

この年、ギグスはチャンピオンズリーグ決勝にも出場しましたが、バルセロナに敗れ、3度目の欧州制覇は叶いませんでした。

2011-12シーズンには、37歳にして38試合に出場し、4ゴールを記録。

チームは惜しくもマンチェスター・シティに優勝を奪われましたが、ギグス個人のパフォーマンスは依然として高いレベルを保っていました。

この年齢でこれだけの試合数をこなせること自体が驚異的です。

2012-13シーズンには、39歳ながら20試合以上に出場し、マンチェスター・ユナイテッドのプレミアリーグ優勝に貢献します。

これが、アレックス・ファーガソン監督の下での最後のタイトルとなりました。

ファーガソン監督の引退発表は、ギグスにとっても感慨深いものとなります。

26年以上にわたって師事した恩師との別れは、一つの時代の終わりを象徴していました。

2013-14シーズンには、デイヴィッド・モイーズ監督の後任として、シーズン途中からプレイングマネージャーとして指揮を執る異例の役割も担います。

選手としてプレーしながらチームを率いるという、現代サッカーでは非常に珍しい立場でしたが、これもマンチェスター・ユナイテッドからの絶大な信頼があったからこそ。

プレイングマネージャーとしての期間は短かったものの、ギグスは4勝2分という成績を残し、シーズンを無事に終えました。

引退(2014年)

2014年5月19日、ギグスは40歳での現役引退を発表します。

24シーズンにわたるマンチェスター・ユナイテッド在籍期間で、公式戦963試合出場(クラブ史上最多)、168得点という偉大な記録を残しました。

引退発表の際、ギグスは

マンチェスター・ユナイテッドでプレーできたことは私の人生最大の名誉です。

と述べ、クラブへの感謝の気持ちを表しました。

オールド・トラッフォードで行われた最終戦では、スタジアム全体がギグスの名前を叫び、24年間の功績を称えます。

対戦相手のハル・シティの選手たちも、伝説の選手に敬意を表しました。

試合後、ギグスは涙を流しながらピッチを一周し、ファンに別れを告げます。

この瞬間は、多くのサポーターにとって忘れられない思い出となりました。

マンチェスター・ユナイテッド アシスタントコーチ時代(2014)

現役引退後も、ギグスはすぐにはクラブを離れませんでした。

2014年夏、新監督として就任したルイス・ファン・ハールのアシスタントコーチに就任し、指導者としてのキャリアをスタートさせます。

ファン・ハール監督は、戦術的に非常に細かく、選手に多くを要求する指導者として知られていました。

ギグスはこの期間、ファン・ハール監督から多くを学びます。

後にギグス自身が語ったところによると、

ファン・ハール監督の分析的なアプローチと戦術的な深さは、私の指導者としての視野を大きく広げてくれた

とのことです。アシスタントコーチとして、チームの戦術設計や選手育成に携わり、指導者としての経験を積んでいきました。

しかし、2016年にファン・ハール監督が解任されると、ギグスもクラブを離れることを決断します。

マンチェスター・ユナイテッドでの選手および指導者としての26年間に幕を閉じ、新たなキャリアを求めて旅立つことになりました。

ウェールズ代表監督時代(2018-2020)

クラブを離れてから約2年間、ギグスは次の機会を待ち続けました。

そして2018年1月、母国ウェールズ代表の監督に就任することが発表されます。

選手時代には国際大会出場という夢を叶えられなかったギグスにとって、監督として代表チームを率いることは特別な意味を持っていました。

ウェールズ代表監督としてのギグスは、若手選手の育成に力を入れながら、チームの戦術的な成熟を図りました。

彼の指導哲学は、かつて師事したアレックス・ファーガソンだけでなく、ルイス・ファン・ハール監督からも大きな影響を受けていると本人が語っています。

分析的な思考と丁寧な判断、そして穏やかな口調でチームを導くスタイルは、選手時代の冷静なプレーぶりを彷彿とさせました。

ウェールズ代表は、ギグスの指揮下でUEFAネーションズリーグでの昇格を果たすなど、一定の成果を上げます。

ガレス・ベイル、アーロン・ラムジーといったスター選手たちを擁し、EURO2020予選でも健闘しましたが、プレーオフでの敗退により本大会出場は叶いませんでした。

2020年11月、私生活に関する問題により、ギグスは代表監督を一時離脱することを発表します。

その後、2022年6月に正式に辞任し、ウェールズ代表監督としての任期を終えました。監督としての成績は、17勝6分9敗という記録でした。

記録と栄誉

クラブでの記録

ギグスが残した主な記録は、サッカー史に永遠に刻まれるものばかり。

マンチェスター・ユナイテッド公式戦出場963試合(クラブ史上最多)は、一つのクラブに対する忠誠心と長寿の証です。

この記録を破る選手が今後現れるかどうかは不明です。

現代サッカーでは、選手が複数のクラブを渡り歩くことが当たり前となっており、一つのクラブで20年以上プレーすること自体が稀になっているからです。

プレミアリーグ13回優勝(選手として史上最多)は、圧倒的な成功の証です。

1992-93シーズンから2012-13シーズンまでの21シーズンで13回の優勝を経験したことは、マンチェスター・ユナイテッドの圧倒的な強さと、ギグスがその中心にい続けたことを物語っています。

UEFAチャンピオンズリーグ2回優勝(1998-99、2007-08)は、欧州最高峰の舞台での成功を示しています。

特に1999年の三冠達成は、クラブ史上最高の瞬間として語り継がれていくでしょう。

FAカップ4回優勝、リーグカップ4回優勝、コミュニティシールド9回優勝など、国内カップ戦でも数多くのタイトルを獲得。

生涯獲得タイトル35個という数字は、世界のサッカー選手の中でトップクラスの記録です。

トップリーグ23年連続ゴール記録(1991-92から2013-14)は、単なる長寿だけでなく、常に攻撃面で貢献し続けたことを示す素晴らしい記録と言えます。

40歳近くまで毎シーズンゴールを記録し続けることは、並大抵のことではありません。

個人タイトル

PFA年間最優秀若手選手賞を2年連続受賞(1992年、1993年)したギグスは、若き日から特別な才能として認められていました。

そして、35歳となった2009年には、PFA年間最優秀選手賞を受賞し、キャリアの円熟期にも最高の評価を受けました。

BBCスポーツ・パーソナリティ・オブ・ザ・イヤー(2009年)を受賞したことは、サッカー界だけでなく、英国スポーツ界全体からの評価を示すもの。

なぜならこの賞は、その年に最も優れた成績を収めた英国のスポーツ選手に贈られる権威ある賞だからです。

2007年には大英帝国勲章(OBE)を授与され、サッカー界への貢献が国家レベルで認められました。

この栄誉は、単なるサッカー選手としての成功だけでなく、模範的な生き方や社会への貢献も評価されたものです。

代表での記録

ウェールズ代表としては、64試合に出場し12ゴールを記録。

1991年から2007年までの16年間にわたって代表チームでプレーしましたが、W杯や欧州選手権への出場は叶いませんでした。

これはギグス個人の能力不足ではなく、ウェールズという小国の代表チームが国際大会の予選を突破できなかったためです。

もしギグスがイングランドやフランスといった強豪国の選手であれば、間違いなく数多くの国際大会で活躍し、代表レベルでも多くのタイトルを獲得していたでしょう。

しかし、母国ウェールズへの忠誠を貫いたギグスの姿勢は、多くの人々から尊敬されています。

影響と評価

アレックス・ファーガソン監督の評価

26年以上にわたってギグスを指導したアレックス・ファーガソン監督は、彼について

マンチェスター・ユナイテッドの歴史の中で、最も偉大な選手の一人

と評価しています。

ファーガソン監督の自伝の中では、

ギグスほどの才能と忠誠心、プロフェッショナリズムを兼ね備えた選手を他に知らない。

と記されています。

ファーガソン監督は、14歳のギグスをユースに引き抜いた時から、彼が特別な選手になることを確信していたと語っています。

そして、その期待は完璧に報われました。

ギグスはファーガソン時代のマンチェスター・ユナイテッドにおいて、欠かせない存在であり続けたのです。

同僚選手たちからの評価

ギグスと共にプレーした多くの選手たちが、彼のプロフェッショナリズムと才能を称賛しています。

ポール・スコールズ

ギグスは私が一緒にプレーした中で最も才能ある選手だった。
彼のスピードとテクニックは本当に特別だった

と語っています。

ギャリー・ネヴィル

ギグスは毎日のトレーニングで手を抜くことがなかった。
40歳近くになっても、若手選手と同じように懸命にトレーニングしていた。
その姿勢が、彼の長いキャリアを支えたんだ。

と評価しています。

ウェイン・ルーニー

ギグスから学んだことは数え切れない。
ピッチ上での振る舞い、プロとしての姿勢、全てが勉強になった。

と述べ、若い世代への影響についても触れています。

ライバルクラブからの評価

興味深いことに、ギグスはライバルクラブの選手やファンからも尊敬を集めていました。

アーセナルの元監督アーセン・ヴェンゲルは

ギグスは特別な選手だった。
彼のような一つのクラブへの忠誠心は、現代サッカーでは珍しい。
それだけで尊敬に値する。

とコメントしています。

リヴァプールのレジェンド、スティーヴン・ジェラードも

ギグスのキャリアは素晴らしいお手本だ。
一つのクラブで長く成功し続けることは、才能だけでなく、強い精神力も必要だ。

と評価しています。

まとめ

ライアン・ギグスは、マンチェスター・ユナイテッドの141年の歴史において、ボビー・チャールトンと並ぶ最高の選手として評価されています。

24シーズンにわたって一つのクラブに忠誠を尽くし、963試合に出場し、35個のタイトルを獲得した彼のキャリアは、まさに伝説と呼ぶにふさわしいものです。

若い頃の圧倒的なスピードドリブルから、ベテランになってからの知的なプレーまで、年齢に応じてプレースタイルを進化させ続けたギグス。

その柔軟性と適応力は、多くのプロフェッショナルアスリートにとって学ぶべき点が多くあります。

ミスター・レッドデビルと呼ばれた男の輝かしいキャリアは、サッカー史に永遠に刻まれています。

プレミアリーグ13回優勝、チャンピオンズリーグ2回優勝という記録は、今後も破られることのない偉業かもしれません。

一つのクラブに生涯を捧げ、そのクラブを世界最高峰のチームへと導き続けた彼の姿は、真のクラブレジェンドとして、これからも語り継がれていくことでしょう。

ライアン・ギグスというサッカー選手は、才能、努力、忠誠心、そしてプロフェッショナリズムの完璧な体現者でした。

彼のキャリアから学べることは数多くあり、サッカーファンだけでなく、全てのスポーツ選手、そして人生における成功を目指す全ての人々にとって、貴重な教訓を提供してくれています。

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