ルート・フリットのプレースタイルと経歴|黒いチューリップが築いた伝説のキャリア

サッカー

1980年代から1990年代にかけて、サッカー界に燦然と輝いた一人のスーパースターがいました。

その名はルート・フリット。

「黒いチューリップ」という美しい異名を持ち、長いドレッドヘアをなびかせながらピッチを駆け巡った彼の姿は、今なお多くのサッカーファンの記憶に深く刻まれています。

ACミランの黄金時代を築いた「オランダトリオ」の一人で、サッカー史上最も完成されたユーティリティープレーヤーと言われています。

また1987年のバロンドールも受賞した実力者でもあります。

193cmの恵まれた体格、驚異的なスピード、繊細なテクニック、そして高い戦術理解力。

すべてを兼ね備えた「完璧な選手」が、どのようなキャリアを歩んできたのか。

その軌跡を詳細に辿っていきます。

ルート・フリットのプロフィール

ルート・フリットのプロフィールはこちら。

ルート・フリットのプロフィール
  • 本名: ルディ・ジル・フリット(Ruud Dil Gullit)
  • 生年月日: 1962年9月1日
  • 出身地: オランダ・アムステルダム
  • 国籍: オランダ
  • 身長: 193cm(一部資料では186cm)
  • 体重: 88kg
  • 利き足: 右足
  • ポジション: ミッドフィールダー、フォワード、ディフェンダー(万能型)
  • 愛称: 黒いチューリップ(Black Tulip)

ルート・フリットは1962年9月1日、オランダの首都アムステルダムで誕生。

父親はスリナム出身の元サッカー選手、母親はオランダ人という国際的な家庭環境で育ちました。

このスリナム系オランダ人というルーツが、後に彼のサッカーキャリアにおいて重要な意味を持つことになります。

スリナムは南米大陸北部に位置する旧オランダ領の国であり、多くのスリナム系住民がオランダに移住していました。

1980年代、オランダサッカー界にはスリナム系の才能ある選手が次々と登場し、フリットはその象徴的存在となりました。

本名は「ルディ・ジル・フリット」ですが、日本のメディアに対しては「フリット」ではなく「グーリット」と呼んでほしいと本人が希望したことでも知られています。

オランダ語の発音に近い表記を求めたこの姿勢は、自身のアイデンティティを大切にする彼の性格を表しています。

トレードマークのドレッドヘアと「黒いチューリップ」

フリットの最も印象的な特徴の一つが、長いドレッドヘア。

1980年代のサッカー界において、このヘアスタイルは極めて珍しく、ピッチ上で一際目立つ存在でした。試合中、このドレッドヘアが風になびく姿は、多くのファンを魅了しました。

「黒いチューリップ」という美しい異名は、彼のエレガントなプレースタイルとカリスマ性、そしてオランダという国の象徴である花「チューリップ」を組み合わせたもの。

オランダを代表する選手として、また美しいサッカーを体現する存在として、この愛称は完璧にフリットを表現していました。

193cmという長身と均整の取れた筋肉質な体格、そしてドレッドヘア。

フリットの外見は、まさにスーパースターにふさわしい存在感を放っていました。

ファッションセンスも優れており、ピッチ外でもカリスマ的な魅力を発揮していました。

知性と教養を備えた人物

フリットは単なるサッカー選手ではありませんでした。

複数の言語を流暢に話し、オランダ語、英語、イタリア語、ドイツ語を駆使してコミュニケーションを取ることができました。

この語学力は、国際的なキャリアを築く上で大きなアドバンテージとなりました。

また、音楽にも造詣が深く、特にレゲエやソウルミュージックを愛好。

時には自らギターを手に取り、演奏を楽しむこともあったといいます。

スリナムのルーツを持つ彼にとって、音楽は自身のアイデンティティを表現する重要な手段でもありました。

社会問題にも関心を持ち、人種差別反対運動に積極的に参加していました。

自身がマイノリティとして経験した差別や偏見に対して、声を上げ続けた勇敢な人物でもありました。

ルート・フリットの革新的なプレースタイル

ルート・フリットのプレースタイルはこちらです。

ルート・フリットのプレースタイル
  • すべてのポジションに抵抗でき、どれも世界レベル
  • フィジカルが強く、ボディバランスがかなり良い
  • 長身の割に繊細なボールテクニックができる
  • テクニカルなドリブルで相手を翻弄
  • 驚異的なスピード
  • 裏へ抜け出したり、守備に戻るスピードも速い
  • シュートバリエーションが豊富
  • 優れた読みとポジショニング
  • 長短のパスがかなり正確
  • 視野が広く、チャンスメイク能力も非常に高い
  • 機を見て前線に上がるタイミングが上手い

とくにフォワードやミッドフィルダー、ディフェンダーのすべてをハイレベルにこなしてしまうところが強烈だと個人的に思います!!

究極の万能性:すべてのポジションをこなす

ルート・フリットを語る上で最も重要な特徴は、その圧倒的な万能性です。

現代サッカーでは「ユーティリティープレーヤー」という言葉がありますが、フリットはその概念を超越した存在でした。

フォワードとしてプレーすれば得点を量産し、ミッドフィールダーとしてプレーすればゲームをコントロールし、ディフェンダーとしてプレーすれば相手の攻撃を完全に封じ込める。

どのポジションでも世界トップクラスのパフォーマンスを発揮できる選手は、サッカー史を見渡してもほとんど存在しません。

PSVアイントホーフェン時代には、主にリベロ(守備的な位置から攻撃を組み立てる自由な役割)としてプレーしていました。

ディフェンスラインの最後方に位置しながら、2シーズンで46ゴールという驚異的な得点を記録しました。

これは現代のメッシやロナウドに匹敵する得点力です。

ACミラン時代には、攻撃的ミッドフィールダーやセカンドストライカーとして起用されることが多く、チームの攻撃を牽引しました。

ファン・バステンライカールトといったスター選手と共に、美しい攻撃サッカーを展開しました。

晩年には再びディフェンシブな役割も担い、チームの守備を安定させる重要な存在となりました。

この柔軟性こそが、フリットが長年トップレベルで活躍し続けられた理由の一つです。

フィジカルとテクニックの完璧な融合

「速い、でかい、強い、うまい」。

この4つの要素をすべて最高レベルで兼ね備えていたのがルート・フリットでした。

圧倒的なフィジカル

193cmの長身と88kgの筋肉質な体格は、相手ディフェンダーにとって悪夢のような存在でした。

異常なまでのジャンプ力を持っているのもフリットの特徴の一つ。

空中戦では圧倒的な強さを誇り、ヘディングでの得点も多数記録しています。

体を使った競り合いでも簡単には負けず、ボールをキープする能力に優れていました。

しかし、フリットの凄さは単なる体格の良さだけではありませんでした。

この大きな体でありながら、驚異的なスピードを持っていたのです。

ドリブルで相手を置き去りにするスピード、裏へ抜け出すスピード、守備に戻るスピード。

すべてが一級品でした。

繊細なボールタッチとテクニック

大柄な選手は往々にしてボールタッチが粗くなりがちですが、フリットは例外でした。

柔らかく繊細なボールタッチは、まるで小柄なテクニシャンのよう。

ドリブルは非常にテクニカルで、フェイント、ステップオーバー、ボディフェイントなど、様々な技術を駆使して相手を翻弄しました。

1990年のトヨタカップで見せた「またぎフェイント」は、今でも語り草となっている名プレーです。

パスの精度も高く、短いパスから長距離のスルーパスまで、あらゆる種類のパスを正確に出すことができました。

視野の広さと相まって、チャンスメイク能力も非常に高いものがありました。

シュートに関しても、強烈なパワーシュートから繊細なループシュートまで、状況に応じて使い分けることができました。

ミドルシュートの精度は特に高く、ペナルティエリアの外からでも得点を奪える能力を持っていました。

戦術的知性:ゲームを読み解く能力

フリットの真の偉大さは、その戦術的知性にありました。

単にフィジカルとテクニックに優れているだけでなく、試合の流れを読み、最適な判断を下す能力に長けていました。

状況判断能力

フリットはピッチ上のあらゆる状況を瞬時に判断し、最適なプレーを選択することができます。

攻撃すべきか守備に回るべきか、ドリブルで仕掛けるべきかパスを出すべきか。

この判断が常に的確であったため、無駄なプレーがほとんどありませんでした。

ポジショニングセンス

どのポジションでプレーしても、常に最適な位置取りができました。

攻撃時には相手の守備の隙間を見つけ、守備時には危険なスペースを埋める。

この能力により、チーム全体のバランスを保つことができました。

ゲームメイキング能力

試合全体を俯瞰して見る能力に優れており、チームの攻撃をオーガナイズすることができました。

どこにボールを運び、どのタイミングで攻撃を仕掛けるか。

フリットがいるだけで、チームの攻撃が組織化され、効果的になりました。

ルートフリットの経歴

ルート・フリットの経歴はこちら。

  • 1979-1982
    HFCハールレム
  • 1982-1985
    フェイエノールト
  • 1985-1987
    PSVアイントホーフェン
  • 1987-1993
    ACミラン
  • 1993-1994
    サンプドリア
  • 1994
    ACミラン
  • 1995
    サンプドリア

  • 1995-1998
    チェルシー

    (選手兼監督)

キャリアの始まり

フリットは8歳からクラブでサッカーを始め、ユース時代をメールボーイズ(1967-1975年)とDWS(1975-1979年)で過ごしました。

1979年、わずか16歳でHFCハールレムにてオランダリーグデビューを果たします。

ハールレムでは91試合に出場して32ゴールを記録。

1981-82シーズンにはチームをリーグ第4位、UEFAカップ出場権獲得へと導く活躍を見せました。

フェイエノールト時代(1982-1985年)

1982年、その活躍が認められフェイエノールトへ移籍します。

ここでサッカー界のレジェンド、ヨハン・クライフとともにプレーし、リーグ優勝に貢献しました。

フェイエノールトでは85試合に出場し30ゴールを記録、オランダ国内でその名を確固たるものにしました。

クライフからは多くのことを学び、戦術的な理解を深める貴重な経験となりました。

PSVアイントホーフェン時代(1985-1987年)

1985-86シーズンからPSVアイントホーフェンでプレーを開始します。

ここでフリットは主にリベロとして起用されながらも、驚異的な攻撃力を発揮します。

2シーズンで68試合に出場し46ゴールという、ディフェンダーとは思えない得点力を見せつけ、8年ぶりのリーグ制覇に貢献。

この時期のパフォーマンスが、ビッグクラブへの移籍への道を開きました。

ACミラン黄金時代(1987-1993年)

1987年、当時ディエゴ・マラドーナに次ぐ推定約12億円という巨額の移籍金でイタリアセリエAのACミランへ移籍します。

移籍初年度の1987-88シーズンから早速活躍し、久しく優勝から遠ざかっていたミランにリーグ優勝をもたらしました。

この年、フリットはバロンドールを受賞し、世界最高の選手として認められます。

マルコ・ファン・バステンフランク・ライカールトとともに「オランダトリオ」を形成し、ACミランの黄金時代を築きました。

1988-89シーズンのチャンピオンズカップ決勝では2ゴールを決めて優勝に貢献し、1990年のトヨタカップではライカールトの先制点をアシストして3-0での優勝に貢献しました。

ミラン時代には117試合に出場し35ゴールを記録しましたが、膝の怪我に悩まされ、1989年から1992年までに合計5回の膝の手術を強いられます。

1991-92シーズンにはファビオ・カペッロ監督の下、主に右サイドハーフとして起用され、怪我で欠場を余儀なくされた時期もありましたが、リーグ無敗優勝に貢献しました。

サンプドリア時代(1993-1995年)

外国人枠の問題やクラブとの関係悪化から1993年にミランを離れ、サンプドリアへ移籍します。

サンプドリアでは2度の在籍期間があり、合計53試合に出場して24ゴールを記録しました。

リベロとしてプレーすることもあり、攻撃面でも守備面でも一級品の能力を発揮しました。

チェルシー時代と選手兼任監督(1995-1998年)

1995年、イングランドのチェルシーFCへ移籍します。

チェルシーでは49試合に出場して4ゴールを記録し、1996年からは選手兼任監督として指揮を執りました。

監督としても成功を収め、FAカップ優勝などのタイトルをもたらし、イングランドサッカー界でも大きな足跡を残しました。

オランダ代表での活躍

1981年から1994年までオランダ代表として66試合に出場し17ゴールを記録しました。

1988年のUEFA欧州選手権では、オランダ代表の優勝に大きく貢献し、国際舞台でもその実力を証明しました。

代表チームではキャプテンを務めることも多く、チームの精神的支柱として機能しました。

1989年6月にはスリナム系オランダ人選手による「カラフル・イレブン」の遠征が予定されていましたが、所属クラブの意向で辞退したため、スリナム航空764便墜落事故で命を落とすことを免れるという出来事もありました。

指導者としてのキャリア

現役引退後は指導者としても活動し、チェルシー(1996-1998年、選手兼任)、ニューカッスル・ユナイテッド(1998-1999年)、フェイエノールト(2004-2005年)、ロサンゼルス・ギャラクシー(2007-2008年)、テレク・グロズヌイ(2011年)などで監督を務めました。

選手時代ほどの成功は収められませんでしたが、サッカー界への貢献を続けています。

まとめ

ルート・フリット最大の特徴は、フォワード、ミッドフィールダー、ディフェンダー、リベロと、あらゆるポジションを高いレベルでこなせる究極のユーティリティープレーヤーであったことです。

「速い、でかい、強い、うまい」

というサッカーの基本要素をすべて兼ね備え、大柄な体格でありながら柔らかなボールタッチと繊細なテクニックを持ち合わせていました。

PSV時代にはリベロとして起用されながら2シーズンで46ゴールを記録するなど、その多才ぶりは他に類を見ません。

1987年のACミランの移籍で、マルコ・ファン・バステン、フランク・ライカールトとともに「オランダトリオ」を形成、移籍初年度にバロンドールを受賞し、チャンピオンズカップやトヨタカップでの優勝に貢献するなど、世界最高峰のステージで輝き続けました。

オランダ代表としても66試合に出場して17ゴールを記録し、1988年のUEFA欧州選手権優勝に大きく貢献。

膝の怪我という困難に直面しながらも、トップレベルでプレーし続けた精神力も特筆すべき点です。

サッカー史上最も完成されたオールラウンダーの一人として、そして「自由人」という理想的な選手像の体現者として、今なおサッカーファンの記憶に深く刻まれる偉大なレジェンドです。

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