マルコ・ファン・バステンのプレースタイル/伝説のストライカーを徹底解説

サッカー

マルコ・ファン・バステンは、1980年代から1990年代初頭にかけて活躍したオランダ出身の伝説的なストライカーです。

「聖マルコ」や「ユトレヒトの白鳥」という愛称で呼ばれ、バロンドールを3度受賞した輝かしいキャリアを持つ彼のプレースタイルと経歴について、詳しくご紹介します。

ファン・バステンのプロフィール

ファン・バステンのプロフィールはこちらです。

ファン・バステンのプロフィール
  • 本名:マルコ・ファン・バステン(Marco van Basten)
  • 生年月日:1964年10月31日
  • 出身地:オランダ・ユトレヒト
  • 身長:188cm
  • 体重:80kg
  • 利き足:右足
  • ポジション:フォワード(センターフォワード)

マルコ・ファン・バステン(Marco van Basten)は、1964年10月31日にオランダのユトレヒトで生まれました。

身長188cm、体重80kgという恵まれた体格を持ち、右足を利き足とするフォワードとして活躍しました。

圧倒的な得点能力と優雅なプレースタイルから、「パーフェクトストライカー」の異名を持ち、サッカー史上最高のフォワードの一人として今なお語り継がれています。

ファン・バステンのプレースタイル

ファン・バステンのプレースタイルは簡単に記載しました。

ファン・バステンのプレースタイル
  • 多彩過ぎるシュートパターン
  • どんな体勢でもシュート精度が異常に高い
  • 卓越したポジション取り
  • 裏に飛び出すタイミングの良さ
  • 優れたボールコントロールとドリブル
  • 深い位置まで下がり、攻撃の起点となる
  • 視野が広い
  • パス精度も高い

ファン・バステンのプレースタイルは、「パーフェクトストライカー」という言葉がふさわしいほど、あらゆる得点能力を兼ね備えていました。

サッカー史上最高のフォワードと評価される彼の特徴を詳しく見ていきましょう。

多彩なシュート技術

ファン・バステンの最大の武器は、シュートの多彩さでした。

188cmの長身とジャンプ力を活かした強力なヘディングシュート、キャノン砲のような威力を持つミドルシュート、コースを正確に狙ったテクニカルなシュート、浮き球を確実にミートするボレーシュート、そして時折見せるオーバーヘッドキックまで、あらゆる種類のシュートを自在に操りました。

特に印象的だったのは、どんな体勢からでもゴールを決められる能力です。

バランスを崩した状態でも、マークされている状況でも、ファン・バステンはボールをゴールに叩き込むことができました。

この適応力の高さが、様々な守備戦術に対応できる理由だったのです。

また、シュートの精度も特筆すべきものでした。

ゴールキーパーが反応できないコーナーへ正確にボールを送り込む技術は、長年のトレーニングと試合経験によって磨き上げられたものでした。

枠内シュート率の高さは、無駄なシュートを打たない冷静さの表れでもありました。

卓越したポジショニング能力

得点を奪うための嗅覚も抜群でした。

ゴールに直結する場所に的確に走り込む能力、その瞬間に最もゴールの確率が高い体の部位でボールを押し込む判断力、これらはファン・バステンが持つ天性の才能でした。

彼は常にゴールへの最短ルートを見つけ出し、そこに自身を配置することができたのです。

ディフェンダーの動きを読み、その裏をかくタイミングの取り方は芸術的でした。

オフサイドラインぎりぎりでの駆け引きを制し、完璧なタイミングでスペースに飛び出す技術は、多くの若手ストライカーが学ぶべき手本となっています。

さらに、ペナルティエリア内での落ち着きも素晴らしいものでした。

混戦の中でも冷静に状況を判断し、最適な選択肢を選ぶことができました。

シュートを打つべきか、味方にパスを出すべきか、その判断の的確さがチームの得点力を大きく向上させていたのです。

優れたボールコントロールとドリブル

単なるゴールゲッターではなく、ファン・バステンはボールコントロールにも優れていました。

1対1の場面でディフェンダーを交わすテクニック、ストップアンドゴーのスピードの緩急を使った突破、繊細なボールタッチによるボールキープ能力など、総合的な技術の高さも兼ね備えていました。

長身選手でありながら、足元の技術は小柄なテクニシャンにも引けを取りませんでした。

狭いスペースでもボールをコントロールし、次のプレーにつなげる能力は、密集した守備を崩す上で非常に重要でした。

ファーストタッチの柔らかさは、難しいパスを確実に自分のものにする基礎となっていました。

ドリブルにおいても、単純なスピードだけでなく、巧みなフェイントとボディバランスを駆使していました。

相手ディフェンダーを一瞬で抜き去る加速力と、体を入れながらボールをキープする技術の組み合わせは、守備側にとって非常に対応しづらいものでした。

パスセンスと視野の広さ

ファン・バステンは得点能力だけでなく、優れたパスセンスと広い視野も持っていました。

センターフォワードでありながら、時には深い位置まで下がってボールを受け、ウイングとの連携プレーを展開することもできました。

このような戦術的な柔軟性が、彼をさらに特別な選手にしていたのです。

特にACミラン時代には、単なる得点者としてだけでなく、攻撃の起点としても機能していました。

中盤からのパスを受け、サイドの選手やオーバーラップしてくるディフェンダーへ正確なパスを供給することで、チーム全体の攻撃のバリエーションを増やしていました。

また、ラストパスの精度も高く、自らゴールを決めるだけでなく、味方のゴールをアシストすることも多くありました。

無私の精神でチームのために最善のプレーを選択する姿勢は、真のストライカーとしての資質を示していました。

圧倒的な得点効率

クラブレベルでは、アヤックスで133試合128得点、ACミランで147試合90得点という驚異的な数字を残しました。

通算280試合で218得点という記録は、得点率77.9%という驚異的な数値であり、歴代のストライカーの中でもトップクラスの効率性を誇っています。

この数字は、ロナウド、ロマーリオ、バティストゥータといった名だたるストライカーを上回り、現役選手(2025年11月現在)ではリオネル・メッシのみが彼の記録を超えているようです。

この得点率の高さは、ファン・バステンがいかに効率的にゴールを量産していたかを物語っています。

また、重要な試合での得点率の高さも特筆すべき点です。

決勝戦やタイトルがかかった大一番で確実にゴールを決める精神力の強さは、真のチャンピオンの証でした。

プレッシャーの中でも平常心を保ち、最高のパフォーマンスを発揮できる能力は、天性のものでした。

エレガントなプレースタイル

ファン・バステンのプレーは、単に得点を奪うだけでなく、その美しさでも人々を魅了しました。

長身でありながら繊細なボールタッチ、優雅な身のこなし、そして決定的な瞬間における冷静さ。

これらが組み合わさって、芸術的とも言えるプレースタイルを作り上げていました。

特に印象的だったのは、ゴールを決めた後の控えめな喜び方です。

派手なパフォーマンスをすることなく、チームメイトと静かに喜びを分かち合う姿は、プロフェッショナルとしての品格を感じさせました。

ピッチ上での振る舞いは常に紳士的で、対戦相手からも尊敬を集めていました。

また、プレーの一つ一つに無駄がなく、必要最小限の動きで最大の効果を生み出す効率性も、ファン・バステンの美学の一部でした。

華麗でありながら実用的、美しくありながら効果的というバランスの取れたプレースタイルは、多くのサッカーファンの心に深く刻まれています。

ファン・バステンの経歴

ファン・バステンの経歴はこちら。

  • 1982-1987
    アヤックス

  • 1987-1993
    ACミラン

ファン・バステンのサッカー人生は、若くして頂点に上り詰め、しかし怪我によって早期引退を余儀なくされるという、栄光と悲哀が交錯する物語でした。

アヤックス時代の飛躍

1981年、17歳でアヤックスとプロ契約を結んだファン・バステンは、1982年4月3日のNECナイメヘン戦でプロデビューを飾りました。

この試合は特別な意味を持っていました。

なぜなら、オランダの伝説的選手ヨハン・クライフが自ら途中交代を申し出て、交代要員としてファン・バステンを指名したからです。

事実上の後継者指名とも言えるこの出来事で、ファン・バステンはプレッシャーを跳ね返し、デビュー戦でゴールを決めて期待に応えました。

オランダリーグでの圧倒的な支配

1983-84シーズンから本格的にレギュラーに定着すると、ファン・バステンは驚異的な得点力を発揮し始めました。

26試合で28得点を挙げ、初めてオランダリーグの得点王に輝きます。

そしてこれが4年連続得点王という偉業の始まりでした。

1984-85シーズンは33試合で22得点、1985-86シーズンには26試合で37得点を記録し、ヨーロッパ・ゴールデンブーツ(現ゴールデンシュー)も受賞しました。

この年、アヤックスの監督はあのヨハン・クライフが務めており、師匠の指導のもとでファン・バステンはさらに成長を遂げたのです。

1986-87シーズンも27試合で31得点と得点を量産し、4年連続得点王を達成しました。

この間、アヤックスはリーグタイトル3回、KNVBカップ3回、そして1986-87シーズンにはUEFAカップ優勝も果たし、ファン・バステンはチームの中心として活躍しました。

ACミラン移籍とオランダトリオの結成

1987年7月、ファン・バステンはイタリアセリエAの名門ACミランに移籍しました。

同年、ルート・フリットもミランに加入し、翌1988年にはフランク・ライカールトも加わって、伝説の「オランダトリオ」が完成。

初年度の1987-88シーズンは足首の怪我に苦しみ、わずか11試合3得点という不本意な結果に終わりました。

この不振により、翌年の欧州選手権では背番号12を与えられるなど、サブ扱いを受けることになります。

EURO1988での歴史的活躍

しかし、1988年のUEFA欧州選手権(EURO1988)で、ファン・バステンは世界中のサッカーファンの記憶に永遠に刻まれる活躍を見せました。

グループリーグ初戦のソ連戦では出場機会がなく、チームも0-1で敗戦しましたが、絶対に負けられない第2戦のイングランド戦で先発出場すると、ハットトリックを決めてチームを3-1の勝利に導きました。

準決勝の宿敵西ドイツ戦では、1-1の同点で迎えた後半43分、スライディングシュートで決勝点を決め、チームを決勝に導きました。

そして決勝のソ連戦では、サッカー史に残る伝説のゴールが生まれました。

左サイドからの高いクロスが、ペナルティエリア内の右サイドにいたファン・バステンに向かいます。

角度はほぼゼロ、普通ならトラップするかパスを選択する場面でしたが、ファン・バステンは異なる選択をしました。

ダイレクトボレーで強烈なドライブ回転をかけたシュートを放ち、キーパーの頭上を越えてゴール左隅のサイドネットに突き刺したのです。

この驚異的なゴールにより、オランダは2-0で勝利し、初めての欧州選手権優勝を果たしました。

ファン・バステンは大会得点王とMVP、そして初めてのバロンドールを獲得し、名実ともに世界最高のストライカーとなりました。

ACミランでの黄金時代

EURO1988での活躍を経て、ファン・バステンは1988-89シーズンからACミランで本領を発揮し始めました。

リーグ戦で33試合19得点を記録し、UEFAチャンピオンズカップでは決勝での2得点を含む大会10得点を挙げて得点王に輝き、ミランを優勝に導きました。

12月にはトヨタカップでコロンビアのナシオナル・メデジンを1-0で破り、世界一のクラブチャンピオンのタイトルも獲得。

この活躍により、2度目のバロンドールを受賞しました。

1989-90シーズンもミランの勢いは止まりません。

リーグ戦で26試合19得点を挙げて得点王に輝き、チャンピオンズカップでは決勝でライカールトの決勝ゴールをアシストし、大会連覇を達成。

トヨタカップでも連覇を果たし、ファン・バステンとACミランは世界中のサッカー少年たちの憧れとなっていました。

1991-92シーズンは、ファン・バステンのキャリアの中でも特に輝かしいシーズンとなります。

リーグ戦31試合で25得点を記録し、2度目のセリエA得点王に輝きました。

そして3度目のバロンドールを受賞し、ヨハン・クライフとミシェル・プラティニに並ぶ史上3人目の3度受賞者となりました。

師であり憧れでもあったクライフと同じ高みに到達したことは、ファン・バステンにとって特別な意味を持っていたはずです。

1990年ワールドカップの不完全燃焼

1990年イタリアワールドカップは、欧州チャンピオンとクラブチャンピオンとして臨んだ大会でしたが、ファン・バステンにとっては不完全燃焼の大会となりました。

チームメイトのフリットの怪我、ファン・バステン自身の足首の状態、代表チーム内の雰囲気の悪さなど、コンディションは万全ではありませんでした。

グループリーグを3戦3分けでかろうじて突破すると、決勝トーナメント1回戦で宿敵西ドイツと対戦しました。

試合は思わぬ展開となり、前半22分にオランダのライカールトと西ドイツのフェラーが両者退場となってしまいます。

心臓ともいえるライカールトを失ったオランダは1-2で敗れ、ファン・バステンは4試合ノーゴールという結果に終わりました。

西ドイツはそのまま優勝し、ファン・バステンのワールドカップ優勝の夢は叶いませんでした。

早すぎる引退

1992-93シーズン、ファン・バステンは13試合で12得点と好調を維持していましたが、またしても足首の怪我に悩まされることになります。

シーズン終盤に復帰し、30節でゴールを決めましたが、これが現役最後のゴールとなりました。

チャンピオンズリーグ決勝のマルセイユ戦では、選手生活で初めて痛み止めの注射を打って出場しましたが、ほぼ感覚のない足でプレーし、後半40分に交代を余儀なくされました。

これが現役最後の試合となり、ファン・バステンはわずか28歳の若さで引退を余儀なくされたのです。

引退後の活動

引退後、ファン・バステンは指導者の道を歩みました。

2003年にアヤックスの監督となり、2004年から2008年まではオランダ代表監督を務めました。

その後、アヤックス、ヘーレンフェーン、AZアルクマールなどで監督やアシスタントコーチとして活動し、現在はコラムニストおよびFIFA最高技術開発責任者として、サッカー界に貢献し続けています。

怪我との戦いとルール改正への影響

ファン・バステンが足首の怪我に苦しんだ背景には、当時のサッカー界における激しいタックルの文化がありました。

完璧なストライカーであるがゆえに、相手ディフェンダーはファール覚悟で止めにかかります。

当時は後ろからのタックルが一発レッドカードではなかったため、イエローカード覚悟の激しいタックルが横行していたのです。

ファン・バステンの早期引退は、サッカー界に大きな衝撃を与え、後ろからのファールを一発退場とするルール改正のきっかけの一つとなったと言われています。

リオネル・メッシやクリスティアーノ・ロナウドといった現代のスーパースターが怪我なく長期間活躍できているのは、ファン・バステンの犠牲があったからこそとも言えるでしょう。

まとめ

マルコ・ファン・バステンは、サッカー史上最高峰のストライカーとして、その優雅で完璧なプレースタイルと圧倒的な得点能力で人々を魅了しました。

わずか28歳での引退という悲劇的な結末を迎えましたが、彼が残した数々の記録と伝説的なゴールは、今もなお世界中のサッカーファンの記憶に鮮明に残り続けています。

バロンドール3度受賞、EURO1988優勝とMVP、チャンピオンズカップ連覇など、短いキャリアの中で成し遂げた偉業の数々は、彼が真に特別な選手であったことを証明しています。

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