フランスサッカー界に燦然と輝く才能として登場し、「ジダン2世」とまで称されたサミル・ナスリ。
アーセナルやマンチェスター・シティといったプレミアリーグの強豪で活躍し、卓越したテクニックと創造性でファンを魅了した彼のプレースタイルは、現代サッカーにおいても語り継がれる価値があります。
プレミアリーグという世界最高峰の舞台で輝きを放ち、数々のタイトルを獲得したナスリ。
しかし、その才能の裏には波乱に満ちたキャリアと、時に物議を醸した行動がありました。
天才と呼ばれながらも、その評価が分かれる複雑な魅力を持つ選手だったのです。
この記事では、ナスリのプロフィール、プレースタイルの特徴、そして波乱に満ちた経歴について詳しく解説します。
彼がどのようにしてフランスの片隅から世界的な選手へと成長したのか、そしてなぜ早すぎる引退を余儀なくされたのか。
その全貌に迫ります。
サミル・ナスリのプロフィール
サミル・ナスリのプロフィールはこちら。
- 本名: サミル・ナスリ(Samir Nasri)
- 生年月日: 1987年6月26日
- 出身地: フランス・ブーシュ=デュ=ローヌ県マルセイユ
- 身長: 177cm
- 体重: 75kg
- 利き足: 左足
- ポジション: ミッドフィールダー(MF)
サミル・ナスリは1987年6月26日、フランス南部のブーシュ=デュ=ローヌ県マルセイユで生まれました。
身長177cm、体重75kgと決して大柄ではありませんが、その小柄な体格を補って余りあるテクニックとスピードを兼ね備えた選手です。
むしろ、この体格だからこそ生まれた重心の低さと俊敏性が、彼のドリブルスタイルに独特の魅力をもたらしました。
両親がアルジェリア系移民であり、マルセイユ出身という点でジネディーヌ・ジダンと共通項が多いことから、若い頃から「ジダン2世」と呼ばれることがありました。
ただし、ナスリ本人が憧れていたのは元アーセナルで活躍したロベール・ピレス。
同じフランス人として、同じようなプレースタイルを持つピレスは、ナスリにとって理想の選手像だったのでしょう。
この憧れが、後のアーセナル移籍につながったとも言えます。
サミル・ナスリのプレースタイル
サミル・ナスリのプレースタイルはこちら。
- 圧倒的なボールコントロール能力 – 狭いスペースでも正確にボールを扱える高度なテクニック
- 優れた創造性とゲームビジョン – 周囲の状況を常に把握し、絶妙なタイミングでパスを供給
- ドリブル技術 – 相手ディフェンダーを翻弄する細かいタッチと方向転換
- 高いキープ力 – 小柄ながら低重心とバランス感覚で簡単には倒されない
- スピーディーなクイックドリブル – カウンターアタックで攻撃を加速させる推進力
- ハードワークと献身性 – 攻撃だけでなく守備面でも貢献するプレッシングと運動量
- 得点力 – ミドルシュートの精度が高く、自らゴールを決められる能力
- 戦術的柔軟性 – トップ下、サイドハーフ、中盤中央など複数のポジションでプレー可能
- 大舞台での勝負強さ – 重要な試合で決定的なゴールやアシストを記録
攻撃的ミッドフィールダーとしての資質
ナスリは主にトップ下やサイドハーフとしてプレーする攻撃型ミッドフィールダーです。
時には中盤の中央でもプレーし、柔軟性の高いポジショニングが特徴でした。
この戦術的な柔軟性は、監督にとって非常に使い勝手の良い選手であることを意味しています。
様々なフォーメーションや戦術に対応できる能力は、プロフェッショナルとしての高い価値を示していました。
左サイドでプレーすることも多く、アーセナル時代には左サイドハーフとして数多くの試合に出場。
左利きであるナスリにとって、左サイドは最も力を発揮できるポジションの一つでした。
サイドから中央に切れ込むプレーは、相手ディフェンダーにとって非常に対応が難しく、ナスリの得意パターンとなっています。
彼の最大の武器は、圧倒的なボールコントロール能力とテクニック。
狭いスペースでも正確にボールを扱い、相手ディフェンダーを翻弄するドリブル技術を持っていました。
特に、細かいタッチでボールを運びながら、相手の動きに応じて瞬時に方向を変える能力は卓越しています。
まるでボールが足に吸い付いているかのようなボールタッチは、見る者を魅了しました。
小柄な体格ながらキープ力も高く、ディフェンダーの一瞬の隙をついたプレーで数々のチャンスを創出。
体格で劣る分、低い重心とバランス感覚を活かし、簡単には倒されないフィジカルの強さを持っていました。
相手がファウルを犯さなければボールを奪えない状況を作り出す技術は、まさに職人芸と言えるものです。
創造性とビジョン
ナスリのプレースタイルで特筆すべきは、その創造性とゲームビジョンです。
常に周囲の状況を把握し、絶妙なタイミングでパスを供給する能力に長けていました。
首を振って周囲を確認する頻度が高く、常に次のプレーを考えながらボールを持っていることが特徴でした。
この視野の広さが、予測不可能なパスワークを可能にしていたのです。
特にマンチェスター・シティ時代には、ダビド・シルバとの相性の良さが際立ち、二人のコンビネーションは相手チームにとって大きな脅威となりました。
似たようなプレースタイルを持つ二人が、互いの動きを理解し合いながら繰り出す連携プレーは、多くのゴールとアシストを生み出していたのです。
テクニックに優れた選手同士のケミストリーは、サッカーの醍醐味の一つと言えるでしょう。
また、スピーディーなクイックドリブルも得意としており、カウンターアタックの場面では持ち前のスピードを活かして攻撃を加速させることができます。
ボールを持った状態でのトップスピードが速く、相手が守備陣形を整える前に仕掛けることができました。
この推進力は、ポゼッションサッカーだけでなく、速攻でも脅威となる多様性をチームにもたらしていました。
相手ディフェンスラインの背後を突くランニングも得意で、多様な攻撃パターンを演出できる選手でもあります。
ボールを持っていない時の動き出しも優れており、スペースを見つけてそこに走り込む判断力を持ち合わせていたのです。
この「オフ・ザ・ボール」の動きの質の高さが、チーム全体の攻撃力を底上げしていました。
ハードワークと献身性
テクニック重視の選手と思われがちですが、ナスリはハードワークを厭わないプレースタイルでも知られています。
技術だけでなく、運動量やチームのための献身的なプレーも惜しまない姿勢が、監督やチームメイトからの信頼につながっていました。
特にプレミアリーグという激しいリーグでは、技術だけでは通用しないため、このハードワークは不可欠でした。
アーセナルの名将アーセン・ベンゲルから高い評価を得ていたのは、この献身的な姿勢も大きな要因です。
ベンゲル監督は技術を重視する指導者として知られていますが、同時に戦術的な規律と運動量も求める監督でもあります。
ナスリがベンゲルの信頼を得られたのは、技術と献身性の両方を兼ね備えていたからこそです。
攻撃だけでなく守備面でも貢献し、ボールを奪い返すためのプレッシングや、守備時のポジショニングにも気を配っていました。
現代サッカーでは、攻撃的な選手にも守備が求められます。
ナスリはこの要求に応え、ボールを失った直後の即座の守備切り替えや、守備時の適切な位置取りを実行していました。
この両面での貢献が、プレミアリーグという激しいリーグで成功を収めた要因の一つです。
チームのために走り続ける姿勢は、時に華麗なテクニックよりも重要な局面もあります。
ナスリはスター選手でありながら、チームの勝利のために汗をかくことを惜しみません。
この姿勢が、チームメイトからのリスペクトを集める要因となっていました。
得点力とミドルシュート
ナスリは創造性だけでなく、得点力も兼ね備えた選手です。
アーセナル時代の2010-11シーズンには自己最多の10得点を記録し、ゴールを決められるミッドフィールダーとしての価値を証明しました。
単なるアシスト役ではなく、自らがゴールを決められる能力があったことで、相手ディフェンスはナスリへのマークをより厳しくせざるを得ませんでした。
特に印象的だったのは、2013-14シーズンのプレミアリーグ最終節ウェストハム・ユナイテッド戦で決めた先制ミドルシュート。
この試合はマンチェスター・シティの優勝がかかった大一番であり、ナスリのゴールがチームを勝利へと導きました。
プレッシャーのかかる大事な場面で結果を出せることは、真のトップ選手の証。
ナスリはまさにその瞬間、チームのヒーローとなりました。
また、2014-15シーズンのUEFAチャンピオンズリーグでも重要なミドルシュートを決めており、大舞台での勝負強さも持ち合わせています。
チャンピオンズリーグという世界最高峰の大会で得点を決められることは、世界クラスの選手である証明です。
ナスリのミドルシュートは精度が高く、ゴールキーパーが反応できないコースに打ち込む技術を持っていました。
左足から放たれるシュートは威力と正確性を兼ね備えており、特にペナルティエリア外からのミドルシュートは相手にとって常に脅威でした。
シュートフォームも美しく、体の開き方やボールへのアプローチが洗練されています。
この得点能力があったからこそ、ナスリは単なるパサーではなく、総合的な攻撃力を持つミッドフィールダーとして評価されたのです。
サミル・ナスリの経歴
サミル・ナスリの経歴はこちら。
- 2004-2008オリンピック・マルセイユ
- 2008-2011アーセナル
- 2011-2017マンチェスター・シティ
2016-2017 セビージャへレンタル
- 2017-2018アンタルヤスポル
- 2019ウェストハム・ユナイテッド
- 2019-2020アンデルレヒト
オリンピック・マルセイユ時代(2004-2008年)
ナスリのプロキャリアは2004年、わずか17歳でのオリンピック・マルセイユデビューから始まります。
地元の名門クラブでプロとしての第一歩を踏み出したことは、幼い頃からマルセイユのユースで育ったナスリにとって夢の実現でした。
当時の監督フィリップ・トルシエは、若手選手の育成と起用に定評があり、ナスリの才能を早くから見抜いていました。
トルシエ監督に抜擢され、若くしてレギュラーポジションを獲得したナスリですが、チーム自体は不振を極めており、2005年にトルシエも解任されてしまいます。
しかし、監督が変わってもナスリの地位は揺るぎません。
むしろ、チームが苦しい状況にあったからこそ、若き才能が早期に重要な役割を担う機会を得られたとも言えます。
デビューシーズンこそ出場機会は限られていましたが、2005-06シーズンからは本格的にスタメンに定着。
中盤の中心として活躍し、創造性あふれるプレーでチームの攻撃を牽引しました。
まだ10代後半という若さでありながら、リーグ・アンという一流リーグで重要な戦力となっていたことは、ナスリの早熟な才能を物語っています。
2007年には、その活躍が認められリーグ・アン若手年間最優秀賞を受賞。
フランス国内での評価を確固たるものにしたこの受賞は、ナスリがフランスサッカー界の次世代を担う存在として認識された瞬間でした。
同時期に、フランス代表にも初招集され、代表デビューも果たしています。
マルセイユでは通算166試合に出場して12ゴールを記録し、4シーズンにわたってクラブの顔として活躍。
地元クラブでの成功は、ナスリにとってプロとしての基盤を築く重要な期間となりました。
しかし、より大きな舞台での挑戦を望むナスリは、2008年にプレミアリーグへの移籍を決断します。
アーセナル時代(2008-2011年)
2008年夏、ナスリは21歳という若さで、イングランドの名門アーセナルFCに移籍しました。
移籍金は1200万ポンドで、当時としては高額な投資でしたが、アーセン・ベンゲル監督はナスリの才能を高く評価していたのです。
ベンゲル監督は長年フランスサッカーを見続けてきた指導者であり、フランス人選手を積極的に起用することでも知られていました。
プレミアリーグデビュー戦となった2008-09シーズン開幕戦のウェストブロムウィッチ・アルビオン戦では、なんと開始わずか4分で初ゴールを記録し、幸先の良いスタートを切ります。
新天地での初戦で即座に結果を出したことは、ナスリの適応力の高さと精神的な強さを示していました。
プレミアリーグという新しいステージでも、物怖じしない姿勢が印象的でした。
アーセナルでは主に左サイドハーフを務め、初年度は6ゴール2アシストを記録。
プレミアリーグのスピードとフィジカルの激しさに適応しながら、着実に成長を遂げていきました。
ベンゲル監督の下で戦術理解を深め、チームの一員として溶け込んでいきます。
2009-10シーズンは、8月のトレーニング中に骨折という不運に見舞われ、序盤戦を欠場することになりました。
10月に復帰を果たすと、その後は安定した活躍を見せ、シーズンを通じて34試合に出場。
怪我からの回復後、むしろより強くなったかのような活躍を見せたことは、ナスリの精神的なタフネスを証明していました。
そして迎えた3年目の2010-11シーズン、ナスリは完全にブレイクします。
このシーズンには自己最多となる10得点を記録し、さらに11アシストという素晴らしい数字を残しました。
アーセナルの攻撃陣の中心として、得点とアシストの両面でチームに貢献。
このパフォーマンスが、後のマンチェスター・シティへの移籍につながっていきます。
アーセナルでは通算125試合に出場して27ゴールを記録。
ベンゲル監督からの信頼も厚く、チームの中心選手として成長を遂げた3年間でした。
しかし、タイトル獲得という面では成功に恵まれず、より高い目標を求めてナスリは次のステップへと進むことを決断します。
マンチェスター・シティ時代(2011-2017年)
2011年夏、ナスリは4年契約でマンチェスター・シティに移籍します。
移籍金は2500万ポンドという高額なもので、アーセナルでの成長が市場価値の上昇として現れていました。
当時のマンチェスター・シティは、オイルマネーを背景に世界中からスター選手を集めており、プレミアリーグの新たな強豪として台頭していました。
移籍後すぐに結果を残し、シーズン序盤のトッテナム・ホットスパー戦では3アシストを記録する衝撃的なデビューを飾ります。
強豪のトッテナム相手に圧倒的なパフォーマンスを見せたことで、シティのファンは新加入のフランス人ミッドフィールダーに大きな期待を寄せるようになりました。
しかし、マンチェスター・シティでの道のりは必ずしも平坦ではありません。
毎年のように世界中からスター選手が加入する中、ポジション争いは熾烈を極めました。
特にダビド・シルバという同じポジションの絶対的エースの存在があり、ナスリは時にベンチスタートを強いられることもありました。
それでも、ナスリはシルバとの相性の良さを示し、二人が同時にピッチに立つことで攻撃力が倍増する相乗効果を生み出します。
また、シルバ不在時には確実に穴を埋める貴重な存在として、チームに欠かせない選手となっていきました。
監督たちもナスリの重要性を認識し、ローテーションの中でも重要な試合では必ず起用される信頼を得ていたのです。
2011-12シーズン、移籍初年度にしてナスリはプレミアリーグ優勝を経験します。
最終節、劇的な逆転優勝を果たしたこのシーズンは、マンチェスター・シティの歴史に残る瞬間でした。
ナスリもこの歴史的な優勝の一翼を担い、夢の実現を果たしました。
2013-14シーズンには、さらなる飛躍を遂げます。
このシーズンのハイライトは、なんといっても最終節のウェストハム・ユナイテッド戦。
優勝をかけた大一番で、ナスリは見事な先制ミドルシュートを決め、チームを勝利へと導きました。
この試合でのゴールは、ナスリのマンチェスター・シティでのキャリアを象徴する瞬間の一つとなりました。
シーズン終了時、ナスリは2度目のプレミアリーグ優勝を手にしています。
2014-15シーズンのUEFAチャンピオンズリーグでは、グループリーグ最終節で決勝トーナメント進出を決める重要なゴールを決めています。
ASローマ戦で決めたこのゴールは、チャンピオンズリーグという大舞台でのナスリの価値を証明するものでした。
ヨーロッパの舞台でも通用する実力を示したのです。
その後もリーグカップでの優勝など、タイトルを積み重ねていきましたが、2016年以降は出場機会が減少。
ペップ・グアルディオラ監督の就任により、チームの方向性が変化し、ナスリの出場機会は限られたものになっていきました。
結果として、2016年夏にセビージャへのレンタル移籍が決まります。
マンチェスター・シティでは通算176試合に出場して27ゴールを記録し、プレミアリーグ2回、リーグカップ2回の優勝を果たしました。
イングランドサッカー界で輝かしい実績を残し、クラブレジェンドの一人として記憶される活躍を見せたのです。
セビージャ時代とドーピング問題(2016-2017年)
2016年夏、ナスリはスペインの名門セビージャFCにレンタル移籍します。
プレミアリーグとは異なるリーガ・エスパニョーラのスタイルで、新たな挑戦を始めたナスリ。
技術重視のスペインサッカーは、テクニシャンであるナスリに適していると期待されました。
しかし、セビージャでのキャリアは、大きな問題によって中断されることになります。
2016年12月、滞在先のアメリカ・ロサンゼルスで受けた点滴治療が、世界アンチ・ドーピング機関(WADA)の規定に違反しているとして問題視されたのです。
ナスリが受けたのは、ビタミンを主原料とした栄養剤500mlの静脈注射でした。
病気の治療目的だったとナスリは主張しましたが、WADAの規則では、静脈注射は12時間で100ml以上の場合、事前に治療目的使用に係る除外措置(TUE)の申請が必要とされています。
ナスリはこの申請を怠っており、規定違反となってしまいました。
2017年2月、UEFAは当初、ナスリに対して2年間の出場停止処分を提示。
これはナスリのキャリアにとって致命的な打撃となる可能性がありました。
ナスリ側はこれを不服として、スポーツ仲裁裁判所(CAS)に提訴します。
長い法廷闘争の末、2018年2月にCASの裁定が下されました。
最終的な処分は18ヶ月間の出場停止となり、当初の2年間からは短縮されましたが、それでも厳しい処分であることに変わりはありません。
出場停止期間は2017年7月1日から2018年12月31日までとされました。
この処分により、ナスリはセビージャでわずか5試合の出場に留まり、シーズン途中で契約を解除。
キャリアの絶頂期に訪れたこの出来事は、ナスリにとって取り返しのつかない損失となりました。
アンタルヤスポル時代(2017-2018年)
出場停止処分が確定した後の2017年8月、ナスリはトルコのアンタルヤスポルと契約を結びます。
出場停止中であるにもかかわらず契約したことには、処分期間中のコンディション維持とチームとの関係構築という目的がありました。
しかし、この移籍は成功とは言えないものでした。
クラブとの関係は良好とは言えず、わずか5ヶ月後の2018年1月には契約を解除してフリーエージェントとなります。
ナスリは公の場で、クラブ側が約束を守らなかったと不満を表明。
給与の支払い遅延などの問題があったとされ、トルコでの短い滞在は不本意な形で終わりを迎えました。
出場停止処分という重荷を背負いながら、居場所を求めて転々とする日々。
かつてプレミアリーグで輝いていたスター選手が、キャリアの黄昏期を迎えつつある現実が、ここにありました。
ドーピング問題がもたらした影響の大きさを、改めて実感させられる出来事でした。
ウェストハム・ユナイテッド時代(2019年)
2018年12月31日、ようやく出場停止処分が明けたナスリ。
約1年半ぶりの復帰に向けて、新天地を探していました。
そんな中、イングランド・プレミアリーグのウェストハム・ユナイテッドが手を差し伸べます。
2019年1月、ナスリはウェストハムと6ヶ月間の短期契約を結びました。
マヌエル・ペジェグリーニ監督の下、かつての舞台であるプレミアリーグへの復帰を果たしたのです。
ペジェグリーニ監督はマンチェスター・シティ時代にナスリを指導した経験があり、彼の能力を熟知していました。
復帰戦は2019年1月のボーンマス戦で、ナスリは約18ヶ月ぶりの公式戦出場を果たします。
しかし、長いブランクの影響は大きく、かつてのようなキレのあるプレーを見せることはできません。
フィジカルコンディションの問題もあり、パフォーマンスは期待を下回るものでした。
結局、ウェストハムでの半年間で出場したのはわずか6試合。
得点もアシストも記録できず、契約満了とともにクラブを去ることになりました。
プレミアリーグという最高峰の舞台への復帰は、残念ながら成功とは言えない結果に終わったのです。
RSCアンデルレヒト時代(2019-2020年)
ウェストハムを離れた後、フリーエージェントとなっていたナスリに声をかけたのは、ベルギーの名門RSCアンデルレヒト。
2019年8月、ナスリはアンデルレヒトと1年契約を結びます。
この移籍の決め手となったのは、元マンチェスター・シティのチームメイトで親友でもあったヴァンサン・コンパニの存在でした。
コンパニはこの時、アンデルレヒトの選手兼監督という立場にあり、旧友ナスリを招き入れたのです。
かつてシティで共に戦った盟友との再会は、ナスリにとって心強いものだったでしょう。
背番号は10番を与えられ、チームの中心としての期待を背負いました。
しかし、ここでもナスリは期待に応えることができません。
コンディション不良や度重なる怪我に悩まされ、満足なプレー時間を確保できなかったのです。
シーズンを通じて出場したのはわずか6試合で、無得点に終わりました。
2020年3月、新型コロナウイルスの影響でシーズンが中断される中、ナスリはクラブとの契約を解除し、退団を発表。
ベルギーでの挑戦も実を結ばず、ナスリのキャリアは更なる岐路に立たされることになります。
かつての輝きを取り戻すことはできず、引退の二文字が現実味を帯びてきた時期でした。
現役引退と引退後の活動(2021年-)
2020年のアンデルレヒト退団後、ナスリはフリーエージェントとして様々なクラブとの交渉を試みましたが、新たな移籍先は見つかりませんでした。
約1年半、所属クラブのない状態が続きます。
そして2021年9月26日、ナスリは自身のSNSを通じて現役引退を正式に発表。
34歳、まだプレーできる年齢での引退は、多くのサッカーファンに惜しまれました。
引退の理由について、ナスリはドーピング問題による出場停止処分が大きな痛手となったことを率直に語っています。
処分は不公平だった。
私はドーピング製品を使用したわけではなく、病気を治すためのビタミン注射だった。
それが私のキャリアを止めてしまった。
と、心中を吐露しました。
確かに、出場停止処分を受けた29歳から30歳という時期は、選手としてのピークに当たる年齢です。
この貴重な時期を失ったことが、その後の復帰を困難にした大きな要因であることは間違いありません。
ナスリの言葉には、無念さと後悔がにじんでいました。
引退後、ナスリは指導者への道を選ぶのではなく、メディアの世界に足を踏み入れました。
フランスの有料スポーツチャンネル「カナル・プリュス」でUEFAチャンピオンズリーグの解説者として活動を始めたのです。
現役時代の豊富な経験を活かし、試合の分析や選手の動きについて詳細な解説を行っています。
解説者としてのナスリは、技術面での洞察に優れており、視聴者から好評を得ています。
特に、自身が得意としていた攻撃的ミッドフィールダーのプレーについての解説は、経験に基づいた説得力のあるものとなっています。
また、ナスリはパデルというラケットスポーツにも熱心に取り組んでいます。
パデルはテニスとスカッシュを組み合わせたようなスポーツで、ヨーロッパで人気が高まっています。
SNSでは、友人たちとパデルを楽しむ姿を頻繁に投稿しており、スポーツとの関わりを続けています。
現役時代の華やかさとは異なる、静かながらも充実した第二の人生を歩んでいるナスリ。
サッカー界との繋がりを保ちながら、新たなステージで活躍しています。
フランス代表でのキャリアと物議
フランス代表としてのナスリのキャリアは、才能と問題が交錯する複雑なものでした。
2007年3月28日、オーストリア戦で代表デビューを果たしたナスリは、当時20歳という若さでレ・ブルー(フランス代表の愛称)の一員となりました。
2008年のEURO(ヨーロッパ選手権)では、最年少メンバーとして23人のメンバーに選出されます。
若手の有望株として期待を集めましたが、チームはグループリーグで敗退。
ナスリ自身の出場機会も限られたものでした。
しかし、この経験が後の代表でのキャリアの基礎となりました。
ところが、2010年のワールドカップ南アフリカ大会では、代表候補30人のリストにも名前が載りませんでした。
当時の監督レイモン・ドメネクは、ナスリがEURO2008でチームの和を乱したという理由で招集を見送ったとされています。
実際、ドメネク監督とナスリの関係は良好とは言えず、この決定にはサッカー以外の要因も影響していたと言われています。
2012年のEURO(ポーランド・ウクライナ大会)では、ナスリは代表に復帰し、重要な戦力として活躍。
特にグループリーグ初戦のイングランド戦では、相手の先制ゴールに対して同点ゴールを決める活躍を見せ、フランスを勝利に導きました。
母国開催ではない大会でしたが、ナスリにとっては代表での存在感を示す大会となりました。
しかし、準々決勝でスペインに0-2で敗退した後、大きな問題が発生します。
試合後の記者会見で、ナスリはフランスのジャーナリストに対して暴言を吐いてしまったのです。
お前らクソ野郎ども、俺を批判し続けた報いだ。
といった内容の発言が報じられ、大きな騒動となりました。
この問題は大きく報道され、フランスの有力紙レキップが実施した読者アンケートでは、なんと56%もの読者がナスリを代表から追放すべきだと回答する結果となります。
ナスリに対する世論の厳しさが、数字として表れた瞬間でした。
結局、ナスリは厳重注意処分を受けるにとどまり、代表資格を剥奪されることはありませんでした。
しかし、この事件はナスリの評判に大きな傷をつけ、以降の代表でのキャリアに影を落とすことになります。
2014年のワールドカップブラジル大会では、ナスリはメンバーに選ばれませんでした。
当時の監督ディディエ・デシャンは、戦術的な理由と共に、チームの雰囲気を重視した選考を行ったとされています。
デシャン監督は後に、ナスリが控えに回ると不満を漏らし、チームの雰囲気が悪化することを懸念したと明かしています。
代表落選を受けて、ナスリは代表引退を表明。
しかし、その際にもフランスサッカー連盟とデシャン監督を痛烈に批判し、再び物議を醸しました。
監督は私を恐れていた。
私の方が彼より有能だからだ。
といった攻撃的な発言は、多くの批判を招きました。
フランス代表としては通算38試合に出場して5ゴールを記録。
決して悪い数字ではありませんが、才能を考えれば、もっと多くの試合に出場し、より大きな貢献ができたはずだという声も多くあります。
ピッチ外での行動が、代表キャリアを自ら縮めてしまった側面は否定できません。
まとめ
サミル・ナスリは、卓越したテクニックと創造性を持ちながら、ピッチ内外での行動が物議を醸すこともあった複雑な選手でした。
「ジダン2世」という重圧の中で、プレミアリーグの強豪で成功を収め、数々のタイトルを獲得した実績は間違いなく一流です。
プレースタイルとしては、圧倒的なボールコントロール、優れたビジョン、創造性あふれるパスワーク、そして得点力を兼ね備えた攻撃的ミッドフィールダー。
小柄な体格ながらハードワークを惜しまず、守備にも貢献する献身性も持ち合わせていました。
アーセナルとマンチェスター・シティで合わせて300試合以上に出場し、プレミアリーグで4度の優勝を経験したことは、彼の能力の高さを証明しています。
しかし、その才能と実績の裏には、様々な問題もありました。
代表チームでの暴言騒動、監督や連盟への批判、そして何よりドーピング問題による18ヶ月の出場停止処分。
これらの出来事が、ナスリのキャリアを大きく揺るがし、最終的には早期引退という結果につながりました。
サミル・ナスリという選手は、天才と呼ばれるにふさわしい技術を持ちながら、同時に人間らしい弱さや衝動性も併せ持っていました。
その光と影のコントラストこそが、ナスリという選手の魅力であり、複雑さでもあったのです。
完璧ではないからこそ、人々の心に深く刻まれる。それがサミル・ナスリという、一人の天才ファンタジスタの物語なのです。


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