ジウベルト・シウバのプレースタイルと経歴|無敗優勝を支えた守備力

サッカー

「見えない壁」と呼ばれた男、ジウベルト・シウバ。彼ほど控えめでありながら、チームにとって不可欠な存在だった守備的ミッドフィルダーは稀です。

2002年ワールドカップ優勝、アーセナルの無敗優勝という輝かしい実績を持ちながら、彼はスポットライトを浴びることよりも、チームのために献身的に働くことを選びました。

派手なタックルやドリブル突破ではなく、的確なポジショニングと冷静な判断で相手の攻撃を未然に防ぐ。

そのプレースタイルは、現代サッカーにおける守備的ミッドフィルダーの理想形とも言えるものでした。

本記事では、ジウベルト・シウバの独特なプレースタイルから輝かしい経歴まで、その全貌を詳しく解説します。

貧困から世界チャンピオンへと上り詰めた彼のストーリーは、多くの人々に感動と勇気を与え続けています。

ジウベルト・シウバのプロフィール

ジウベルト・シウバのプロフィールはこちらです。

ジウベルト・シウバのプロフィール
  • 本名: ジウベルト・アパレシド・ダ・シウバ(Gilberto Aparecido da Silva)
  • 生年月日: 1976年10月7日
  • 出身地: ブラジル・ミナスジェライス州ラゴア・ダ・プラタ
  • 身長: 190cm
  • 体重: 74kg
  • 利き足: 右足
  • ポジション: 守備的ミッドフィルダー(DMF)、センターバック(CB)

ジウベルト・アパレシド・ダ・シウバは、1976年10月7日にブラジル・ミナスジェライス州のラゴア・ダ・プラタで生まれます。

身長190cm、体重74kgという恵まれた体格を持つ元サッカー選手ですが、その成功の裏には、想像を絶する貧困との戦いがありました。

彼の家庭は非常に貧しく、父親は鍛冶屋、母親は主婦という家庭環境で育ちます。

3人の姉妹と小さな家で暮らし、兄弟全員が一つの部屋を共有するという厳しい生活を送っていました。

この環境で育ったことが、後の彼の謙虚な性格と、どんな困難にも立ち向かう精神力の基盤となります。

サッカーキャリアへの道のりと挫折

12歳の時、1988年にアメリカ・ミネイロのユースアカデミーに入団し、サッカー選手としてのキャリアをスタートさせます。

才能を認められ、プロサッカー選手への道が開けるかに見えましたが、人生は彼に厳しい試練を与えました。

16歳の時に父親が退職したため、家族を養うために一度サッカーを諦め、労働者、大工、菓子工場の作業員として働く必要がありました。

当時の月給は2002年のレートで約50ポンド相当という低賃金。

家族を支えるのがやっとの状況で、夢を諦めざるを得なかったようです。

プロとしての再出発

1997年、22歳の時に友人たちの説得により、アメリカ・ミネイロと再契約を結び、プロサッカー選手として復帰しました。

この決断が、彼の人生を大きく変えることになります。

センターバックとしてプレーし、チームのセリエB優勝とセリエA昇格に貢献しました。

2000年にはライバルクラブのアトレチコ・ミネイロに移籍し、そこでカルロス・アルベルト・パレイラ監督の下、センターバックから守備的ミッドフィルダーへとポジションを変更。

この転向が、ジウベルトの才能を真に開花させるきっかけとなったのです。

守備的ミッドフィルダーとしての彼の能力は、瞬く間にブラジル国内で注目を集めるようになりました。

ジウベルト・シウバのプレースタイル

ジウベルト・シウバのプレースタイルはこちらです。

ジウベルト・シウバのプレースタイル
  • 「見えない壁」の守備力: 2人のCBとMFの間に位置取り、相手の攻撃を未然に防ぐ予防的な守備
  • 独特なシャドーイング技術: 激しいタックルではなく、相手を後退させる受動的なアプローチ
  • 異例のクリーンさ: 45試合以上イエローカード無しの期間が2度もある規律ある守備
  • 卓越した戦術理解度: 相手の動きを読み、常に危険なエリアに先回りする予測能力
  • 優れたポジショニング: ロングボール戦術を得意とするチームを完璧に封じ込める位置取り
  • 正確なパス能力: ボール奪取後、シンプルかつ効果的に攻撃の起点となる配球
  • 高いボール奪取能力: 中盤での圧倒的な守備力で相手の攻撃の芽を摘む
  • 意外な得点力: 2006-07シーズンに10ゴールを記録した守備的MFとしては異例の得点能力
  • 強靭なリーダーシップ: 控えめな性格ながら必要な時にチームを鼓舞できる指導力
  • 不屈のメンタリティ: 背骨骨折からの完全復活を果たした強靭な精神力

「ブラジルの見えない壁」と呼ばれる守備力

ジウベルト・シウバは「見えない壁」という異名を持っており、この呼び名は彼の独特なプレースタイルを的確に表現しています。

彼は2人のセンターバックと他のミッドフィールダーの間に位置取り、相手の攻撃が勢いを増す前に破壊するという役割を担っていました。

この「見えない」という表現は、彼のプレーが派手ではなく、目立たないものの、チームにとって絶対的に不可欠であることを意味しています。

スーパープレーで観客を沸かせることよりも、静かに、しかし確実に仕事をこなす。

それがジウベルトのスタイルでした。

彼のプレーは時に目立たないものの、チームの守備システムにおいて不可欠な存在。

相手の攻撃の芽を摘み、危険な状況になる前に処理する。

この予防的な守備こそが、ジウベルトの真骨頂だったのです。

独特なディフェンススタイル

一般的な守備的ミッドフィルダーとは異なり、ジウベルトは積極的にタックルを仕掛けるのではなく、相手選手をシャドーイングすることで後退させるという受動的なアプローチを取っていました。

この戦術は非常に効果的で、相手選手にプレッシャーを与えながらも、ファウルを犯すリスクを最小限に抑えることができたのです。

この独特なスタイルにより、守備的ミッドフィルダーとしては異例なほどクリーンな記録を保持していました。

アーセナル時代には45試合以上イエローカードを受けなかった期間が2度もあります。

これは、彼がいかに計算されたクリーンな守備を実践していたかを物語っています。

多くの守備的ミッドフィルダーが、激しいタックルでボールを奪うスタイルを取る中、ジウベルトは相手の選択肢を狭め、ミスを誘発させることでボールを奪っていました。

この知的な守備スタイルは、現代サッカーにおいても模範とされています。

高い戦術理解度とポジショニング

彼の最大の強みは、卓越した戦術理解度と優れた読みの能力でした。

サッカーは単なるフィジカルの勝負ではなく、頭脳戦でもあります。

ジウベルトは、この頭脳的な側面において、世界最高峰のレベルに達していました。

相手の長いボールを使った攻撃に対しては、相手のターゲットマンをマンマークすることでストライカーへの供給を断ち、ロングボール戦術を得意とするチームを苦しめました。

特にプレミアリーグでは、フィジカルを前面に出したロングボール戦術が多く見られましたが、ジウベルトはこのスタイルに対して完璧な対応を見せます。

ProZoneというデータ分析システムによれば、2007年時点でジウベルトは、マンチェスター・ユナイテッドのポール・スコールズやチェルシーのフランク・ランパードと並んで、「エリートチャンピオンズリーグレベル」のパフォーマンスを達成している数少ないミッドフィールダーの一人でした。

この評価は、彼の能力が単なる守備だけでなく、総合的な中盤としての能力においても世界最高峰であったことを証明しています。

常に試合の流れを読み、危険なエリアに先回りする能力は、天性のものでありながら、長年の経験によって磨かれたものでした。

相手が攻撃を仕掛けようとする瞬間、ジウベルトはすでにそこにいる。

この予測能力こそが、「見えない壁」と呼ばれる所以でした。

ボール奪取とパス能力

圧倒的な中盤での守備力とボール奪取能力に加えて、ジウベルトは当時のアーセナルの速いパス回しについていける正確なパスを散らす能力も持っていました。

守備的ミッドフィルダーにとって、ボールを奪うことは仕事の半分に過ぎません。

奪った後、いかに効果的に攻撃につなげるかが重要です。

ジウベルトは、ボールを奪った後、シンプルかつ効果的にボールを配給し、チームの攻撃の起点となることができました。

無駄なドリブルやリスクの高いパスは避け、常に確実な選択をする。

このシンプルさが、アーセナルの流麗な攻撃を支える基盤となっていました。

特にパトリック・ヴィエラとのコンビは世界最高の中盤デュオとして知られ、2003-04シーズンのアーセナル無敗優勝の要となりました。

ヴィエラの攻撃的な動きを、ジウベルトがカバーすることで、中盤のバランスが完璧に保たれていました。

この二人のコンビネーションは、プレミアリーグ史上でも屈指のパートナーシップとして今でも語り継がれています。

また、ロングパスの精度も高く、サイドチェンジやカウンター攻撃の起点として重要な役割を果たしていました。

守備から攻撃への切り替えの速さが求められる現代サッカーにおいて、ジウベルトのパス能力は非常に価値のあるものでした。

意外な得点力

守備的ミッドフィルダーでありながら、2006-07シーズンには10ゴールという驚異的な得点記録を残しています。

これはティエリ・アンリが負傷で長期離脱した際、キャプテンとしてペナルティキックを担当したことが主な理由ですが、彼のシュート力とゴールへの意識の高さを示すものでした。

PKだけでなく、セットプレーからのヘディングゴールや、ミドルシュートによるゴールもあり、守備的ミッドフィルダーとしては異例の得点力を持っています。

190cmという長身を活かしたヘディングは、攻撃時のセットプレーにおいて大きな武器となりました。

この得点力は、チームにとって予想外のボーナスであり、相手チームにとっては新たな脅威となりました。

守備だけでなく攻撃でも貢献できる万能型の選手として、ジウベルトの価値はさらに高まったのです。

リーダーシップとメンタリティ

ピッチ内外でのリーダーシップも、ジウベルトの大きな魅力の一つ。

控えめな性格でありながら、必要な時には声を出してチームを鼓舞し、若手選手を導く姿勢は、多くのチームメイトから尊敬されていました。

2007年のコパ・アメリカでは、負傷で欠場していたルシオに代わってブラジル代表のキャプテンを務め、チームを優勝に導きました。

この経験は、彼のリーダーとしての資質を証明するものです。

また、困難な状況でも決して諦めない強靭なメンタリティを持っていました。

背骨の骨折という重傷から復帰した際の精神力は、多くの人々に勇気を与えました。

貧困から世界チャンピオンへと上り詰めた経験が、どんな逆境にも立ち向かう強さを彼に与えていたのです。

ジウベルト・シウバの経歴

ジウベルト・シウバの経歴はこちら。

  • 1997-1999
    アメリカ・ミネイロ
  • 2000-2002
    アトレチコ・ミネイロ
  • 2002-2008
    アーセナルFC
  • 2008-2011
    パナシナイコス
  • 2011-2012
    グレミオ
  • 2013-2015
    アトレチコ・ミネイロ

16歳の時に父親が退職したため、家族を養うために一度サッカーを諦め、労働者、大工、菓子工場の作業員として働く必要があったジウベルト・シウバ。

そんな彼が友達の説得により1997年プロとして再出発したのは有名な話ですよね!

アメリカ・ミネイロ(1997-1999)

1997年、22歳で再びサッカーの世界に戻ったジウベルトは、アメリカ・ミネイロでプロとしてのキャリアを本格的にスタートさせます。

当初はセンターバックとしてプレーし、その高さとフィジカルを活かした守備で注目を集めました。

チームのセリエB優勝とセリエA昇格に貢献し、ブラジル国内で徐々に名前が知られるようになりました。

3年間で着実に実力をつけ、より大きなクラブへのステップアップの機会を待っていました。

アトレチコ・ミネイロ(2000-2002)

2000年、ジウベルトはライバルクラブのアトレチコ・ミネイロに移籍。

この移籍が、彼のキャリアにとって転機となります。

カルロス・アルベルト・パレイラ監督の下で、センターバックから守備的ミッドフィルダーへとポジションを変更されたのです。

このポジション変更は大成功でした。ジウベルトは守備的ミッドフィルダーとして驚異的な能力を発揮し、2001年シーズンには3ゴールを記録。

彼の戦術理解度の高さ、ポジショニングの良さ、そして冷静な判断力は、このポジションで最大限に活かされました。

アトレチコ・ミネイロでの活躍は、ブラジル代表監督の目に留まることになります。

2001年10月、ルイス・フェリペ・スコラーリ監督によってブラジル代表に招集され、チリ戦で代表デビューを果たしました。

この招集が、彼の人生を劇的に変えることになります。

2002年ワールドカップでの衝撃的な飛躍

2002年のFIFAワールドカップには、予想外の形でメンバー入りしました。

当初はメンバー外の予定でしたが、大会直前にチームキャプテンのエメルソンが負傷したため、急遽レギュラーとして召集されたのです。

この予想外のチャンスを、ジウベルトは見事につかみます。

全試合にフル出場し、ブラジルの守備の要として活躍。

準決勝のトルコ戦ではロナウドのゴールをアシストするなど、ブラジルの優勝に大きく貢献しました。

ブラジルの雑誌「Veja」は、「ジウベルトはロナウドとリバウドが演奏するためにピアノを運んだ」と表現。

この表現は、彼の献身的な役割を的確に捉えたものでした。

スターたちが輝くために、影で支える仕事を完璧にこなす。

それがジウベルトの役割であり、彼はその役割を誰よりも見事に果たしたのです。

ワールドカップ優勝という栄光を手にしたジウベルトは、一躍世界的な注目を集める選手となりました。

多くのヨーロッパのビッグクラブが、この「見えない壁」の獲得に動き出します。

アーセナル(2002-2008)

ワールドカップでの活躍により、2002年8月に450万ポンドの移籍金でアーセナルに加入。

アーセン・ベンゲル監督は

彼がシンプルにプレーする点が気に入った。
彼は中盤のどこでもプレーできるが、守備の前でのホールディングロールが最も得意だ。

とコメントし、ジウベルトの獲得に大きな期待を寄せていました。

デビュー戦となったFAコミュニティシールドのリヴァプール戦では後半から途中出場し、決勝ゴールを決めるという完璧なスタートを切りました。

さらに、2002年9月25日のPSV戦では、UEFAチャンピオンズリーグ史上最速となる20.07秒でのゴールを記録し、この記録はアーセナルの最速ゴール記録として今も残っています。

インビンシブルズの一員として(2003-2004)

2003-04シーズンは、ジウベルトにとって、そしてアーセナルにとって最も輝かしいシーズンとなりました。

アーセナルがプレミアリーグで無敗優勝を達成した「インビンシブルズ」の中心メンバーとして、38試合中32試合に出場。

パトリック・ヴィエラとの中盤コンビは、世界屈指のパートナーシップとして高く評価されました。

ヴィエラの攻撃的な推進力と、ジウベルトの守備的な安定感が完璧に融合し、アーセナルの中盤は鉄壁となります。

この二人がいる限り、相手チームは中央突破を諦めざるを得ませんでした。

ティエリ・アンリロベール・ピレスデニス・ベルカンプといった攻撃陣が自由に創造性を発揮できたのは、ジウベルトとヴィエラが守備を完璧に固めていたからです。

無敗優勝という歴史的快挙の影の立役者として、ジウベルトの貢献は計り知れないものがありました。

怪我との戦いと復活(2004-2005)

2004-05シーズンの開幕直後、背中に深刻な痛みを感じ、ボルトン戦後の検査で背骨の骨折が判明しました。

当初は1ヶ月程度と見られていた離脱期間は、最終的に7ヶ月に及び、シーズン中わずか17試合の出場にとどまりました。

医師からは3ヶ月間バックブレースの装着を指示され、ブラジルで療養生活を送ります。

この間、現役続行が危ぶまれる状況でしたが、ジウベルトは決して諦めませんでした。

家族を養うために一度サッカーを諦めた経験、貧困との戦い、そしてワールドカップ優勝までの道のり。

これまでの人生で培った強靭な精神力が、彼を支えました。

懸命なリハビリにより完全復活を果たし、2005-06シーズンからは再びチームの中心選手として活躍。

この復活劇は、多くのファンや選手に勇気を与え、ジウベルトの人間的な魅力をさらに高めることになりました。

キャプテンシーとリーダーシップ(2005-2008)

2005年にヴィエラがユヴェントスに移籍した後、ジウベルトはチームの中心選手としての責任がさらに増しました。

2005-06シーズンには、UEFAチャンピオンズリーグ決勝まで進出し、特にレアル・マドリード、ユヴェントス、ビジャレアル戦での守備パフォーマンスが高く評価されます。

決勝ではバルセロナに1-2で敗れたものの、ジウベルトの献身的なプレーは称賛されました。

2006-07シーズンには副キャプテンに任命され、エミレーツ・スタジアムでの初ゴールを記録するなど、10ゴールという守備的ミッドフィルダーとしては驚異的な得点記録を残します。

このシーズンの彼のパフォーマンスは、多くのアーセナルファンやサッカー評論家から

「シーズン最優秀選手」

と評価されました。

2007-08シーズン、ティエリ・アンリのバルセロナ移籍後、多くの人がジウベルトが次期キャプテンになると予想しましたが、ウィリアム・ギャラスが選ばれます。

さらに、若手のマチュー・フラミニに先発の座を奪われ、ベンチでの時間が増えました。

それでもジウベルトはプロフェッショナルとしての姿勢を貫き、出場機会を求めて戦い続けます。

不満を口にすることなく、チームのために最善を尽くす姿勢は、多くのチームメイトや監督から尊敬されました。

アーセナルでの6年間で、リーグ戦170試合に出場し、14ゴールを記録しました。

パナシナイコス(2008-2011)

2008年7月、新たな挑戦を求めてギリシャのパナシナイコスに移籍します。

32歳という年齢でしたが、まだまだトップレベルでプレーできる自信がありました。

3シーズンをギリシャで過ごし、2009-10シーズンにはギリシャリーグとカップの二冠達成に貢献しました。

スターティングホールディングミッドフィルダーとして数多くの堅実なパフォーマンスを見せ、チームの中心選手として活躍。

ギリシャでも「見えない壁」としての役割を完璧に果たし、若手選手たちの手本となりました。

パナシナイコスでは3シーズンで79試合に出場し、5ゴールを記録しています。

グレミオ(2011-2012)

2011年5月、9年間のヨーロッパでのキャリアを終え、グレミオと18ヶ月契約を結びブラジルに帰国します。

35歳となっていましたが、ブラジルサッカーへの恩返しをしたいという思いから、母国でのプレーを選択しました。

グレミオでは1シーズン半プレーし、経験豊富なベテランとして若手の指導にも力を注ぎました。

ブラジルに戻ってからも、そのプロフェッショナリズムは変わらず、チームに大きな影響を与えました。

アトレチコ・ミネイロ復帰(2013-2015)

2012年、かつて所属していたアトレチコ・ミネイロへの復帰が決定。

このクラブで守備的ミッドフィルダーへと転向し、ブラジル代表への道を開いた思い出の地への帰還は、ジウベルトにとって感慨深いものでした。

2013年には念願のコパ・リベルタドーレス優勝を果たします。

ワールドカップ、チャンピオンズリーグ決勝進出、そしてコパ・リベルタドーレス優勝。

世界の主要な大会で結果を残したことは、ジウベルトのキャリアを完璧なものにしました。

2015年12月11日、39歳で現役引退を正式に発表。

アトレチコ・ミネイロでの最後の3年間で、85試合に出場し4ゴールを記録。最後まで高いレベルでのプレーを維持し、有終の美を飾りました。

ブラジル代表での輝かしいキャリア

ブラジル代表としては2001年から2010年まで9年間にわたって活躍し、91試合に出場して3ゴールを記録。

代表デビューから引退まで、常にブラジルの守備の要として君臨し続けました。

2002年FIFAワールドカップ優勝は、ジウベルトのキャリアにおける最大のハイライトです。

予想外の形でレギュラーに抜擢されながら、その期待を大きく上回るパフォーマンスを見せ、優勝の立役者となりました。

2005年と2009年のFIFAコンフェデレーションズカップでは2度の優勝を経験。

2007年コパ・アメリカでは、負傷で欠場していたルシオに代わってキャプテンを務め、チームを優勝に導きました。

この大会でのリーダーシップは、ブラジル国内で高く評価され、真のキャプテンとしての資質を証明しています。

2010年南アフリカワールドカップにも参加しましたが、これが代表としての最後の大会となりました。

34歳という年齢ながら、依然として高いレベルでのプレーを披露し、次世代へとバトンを渡しました。

現在の活動と遺産

引退後は、アーセナルとFIFAの両方のアンバサダーを務めており、サッカー界への貢献を続けています。

2023年には国際スポーツ研究センターによってサッカーへの貢献が認められ、23番目のFIFAマスタークラスのパトロンに任命されました。

また、2014年のFIFAワールドカップではESPNのスタジオアナリストとして、2022年のカタール大会ではBBCの解説者として活躍するなど、その豊富な経験と深い洞察力を活かして、サッカーファンに貴重な分析を提供しています。

解説者としての彼のコメントは、選手時代と同様に控えめでありながら的確で、多くの視聴者から支持されています。

まとめ

ジウベルト・シウバは、貧しい家庭から世界チャンピオンへと上り詰めた、努力と献身の象徴です。

16歳でサッカーを諦め、工場で働いていた少年が、わずか数年後にワールドカップを制覇し、世界最高峰のクラブで活躍する。

このストーリーは、多くの人々に夢と希望を与え続けています。

彼の控えめで謙虚な性格と、ピッチ上での圧倒的な存在感のコントラストは、多くのファンに愛される理由となっています。

「見えない壁」として、チームの守備を支え続けた彼のプレースタイルは、現代の守備的ミッドフィルダーの模範として今なお語り継がれています。

ジウベルト・シウバという名前は、サッカー史において、最も過小評価されながらも最も重要な選手の一人として、永遠に記憶されることでしょう。

彼のキャリアは、才能だけでなく、献身、謙虚さ、そして不屈の精神がいかに重要であるかを教えてくれる、素晴らしい教訓となっています。

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