現代サッカー史において、セスク・ファブレガスほど多彩なキャリアを歩んだミッドフィールダーは稀でしょう。
バルセロナの育成組織で才能を開花させ、16歳でプレミアリーグの舞台へ飛び込み、わずか数年で世界トップクラスの司令塔へと成長を遂げます。
アーセナル、バルセロナ、チェルシーという欧州を代表する名門クラブを渡り歩き、それぞれのチームで唯一無二の存在感を放ったセスク。
スペイン代表としては、2008年ユーロ、2010年ワールドカップ、2012年ユーロという史上初の3大会連続優勝という偉業を成し遂げた黄金世代の中心選手でもありました。
本記事では、セスク・ファブレガスのプレースタイル、経歴、そして彼がサッカー界に残した足跡を詳しく紐解いていきます。
天才プレーメーカーの真髄に迫る旅へ、ぜひお付き合いください。
セスク・ファブレガスのプロフィール
セスク・ファブレガスのプロフィールはこちらです。
- 本名: フランセスク・ファブレガス・ソレール (Francesc Fàbregas Soler)
- 生年月日: 1987年5月4日
- 出身地: スペイン・カタルーニャ州アレニズ・ダ・マール
- 身長: 180cm
- 体重: 75kg
- 利き足: 右足
- ポジション: ミッドフィールダー(セントラルミッドフィールダー、攻撃的ミッドフィールダー、ボランチ)、フォワード(偽9番)
セスク・ファブレガスは、1987年5月4日にスペイン・カタルーニャ州アレニズ・ダ・マールで生まれた元サッカー選手です。
本名はフランセスク・ファブレガス・ソレールといい、「セスク」は愛称として親しまれています。カタルーニャ語の伝統的な名前の短縮形であり、地元では多くの人々がこの愛称で呼ばれています。
身長180cm、体重75kgという、ミッドフィールダーとしては理想的な体格を持ち、右足を利き足とするセスク。
その恵まれたフィジカルに加え、卓越した技術と戦術眼を兼ね備えた彼は、ミッドフィールダーおよびフォワードとして活躍。
プレー中の姿勢は常に堂々としており、若い頃から貫禄すら感じさせる存在感がありました。
現役時代には、アーセナル、バルセロナ、チェルシー、モナコ、コモなどヨーロッパを代表するクラブでプレーし、クラブ通算で517試合に出場して81得点を記録。
この数字以上に特筆すべきは、彼が記録した膨大なアシスト数です。
得点を演出する能力において、セスクは同世代の選手たちの中でも群を抜いていました。
セスク・ファブレガスのプレースタイル 司令塔としての完成形
セスク・ファブレガスのプレースタイルはこちらです。
- 芸術品のようなキック精度 – ショートパスはインサイド、ロングパスはインステップとインフロントを使い分け、一つ一つが芸術品のような精度
- 決定的なロングボールの供給 – 30〜40メートル先の味方の足元へ、手渡しするかのような精度でボールを届ける能力
- ゲームメイク能力 – 中盤の深い位置からゲーム全体をコントロールし、一本のパスで膠着した試合を動かすことで、攻撃のリズムを作る
- イーグルアイ(鷹の目) – ピッチ全体を俯瞰し、平面ではなく立体的に空間を捉える視野の広さ
- 瞬時の状況判断が正確 – ボールを受けた瞬間に無数の選択肢を計算し、最適なパスコースを導き出す頭脳
- マルチポジション対応 – センターMF、攻撃的MF、ボランチ、FWと、どのポジションでも高いパフォーマンスを発揮
- 戦術理解度の高さ – 監督が求める役割を理解し、それを忠実にこなしながらも自身の特長を活かすバランス感覚
- 効率的なドリブル – 派手さはないが、相手が詰めてきたタイミングで一歩目のスピードで抜き去る実用的なドリブル
- 得点力がある – パスだけでなく、自ら得点を奪う能力も兼ね備えた万能型ミッドフィールダー
セスク・ファブレガスのプレースタイルを一言で表すなら「レジスタ」。
レジスタとは、もともとイタリア語で演出家や映画監督を意味する言葉ですが、サッカーにおいてはゲーム全体をコントロールする司令塔を指します。
映画監督が作品全体の流れを設計するように、セスクはピッチ上で試合の流れを自在に操りました。
中盤の深い位置からゲームを組み立て、攻撃のリズムを作り出し、決定的なパスでチャンスを演出する。
これこそがレジスタの役割であり、セスクが最も得意とした仕事です。
ただ個人的に、単純なレジスタというよりは、「ボックストゥボックス」にも対応した万能型のミッドフィルダーのように感じました。
パスセンスの塊 芸術品のようなキック精度
セスクの最大の武器は、類まれなるパスセンスと視野の広さです。
ショートパスではインサイドキックを駆使し、ロングパスではインステップキックとインフロントキックを使い分け、一つ一つのキックが芸術品のような精度を誇りました。
ボールを受けた瞬間、セスクの頭の中では無数の選択肢が計算されています。
右サイドのウイングへ展開するか、中央で待つストライカーへスルーパスを出すか、それとも後方でビルドアップを続けるか。その判断の速さと正確さは、世界トップクラスのミッドフィールダーの中でも際立っていました。
特筆すべきは、プレミアリーグにおける100アシスト到達の速さです。
セスクは293試合で100アシストを達成し、当時のギネス記録を樹立。
これはマンチェスター・ユナイテッドのレジェンド、ライアン・ギグスの367試合を約70試合も上回る驚異的なペースでした。
この記録は、セスクのアシスト能力がいかに卓越していたかを物語っています。
ギグスは左サイドから中央へカットインして決定的なパスを送るスタイルでしたが、セスクは中盤の深い位置から、あらゆる方向へパスを散らすことができました。
このバリエーションの豊富さが、セスクのアシスト記録の速さにつながったのです。
正確なロングボールも彼の特徴の一つ。
短いパスだけでなく、相手ディフェンスラインの背後へ正確に蹴り込むロングパスは、チームメイトに決定的なチャンスを何度も与えました。
30メートル、40メートル先の味方の足元へ、まるで手渡しするかのような精度でボールを届けることができたのです。
特にアーセナル時代、高速カウンターの起点となるセスクのロングボールは、相手チームにとって脅威でした。
ボールを奪った瞬間、セスクは前線へ走るティエリ・アンリやロビン・ファン・ペルシーへピンポイントでパスを送り、一瞬でチャンスを作り出します。
この「ゼロ秒速攻」とも呼べるプレーは、プレミアリーグのファンを何度も熱狂させました。
俯瞰する目と瞬時の判断力 イーグルアイの真髄
しかし、キック技術だけがセスクの凄さではありません。
ピッチ全体を俯瞰する「イーグルアイ」と呼ばれる視野の広さ、そして瞬時に最適なパスコースを導き出す頭脳こそが、彼を真の天才たらしめる要素でした。
セスクは常に敵と味方の位置を把握し、平面ではなく立体的に空間を捉えていました。
鳥のように上空から見下ろしているかのような視点で、誰も気づかないスペースを発見し、そこへピンポイントでパスを送り込む能力に長けています。
多くの選手が自分の周囲360度の状況を把握するのに精一杯ですが、セスクはそれに加えて相手選手の視線や体の向き、次の動きまで予測していました。
この能力は、バルセロナのカンテラ時代に培われたもの。
狭いスペースでのポゼッションゲームを繰り返す中で、セスクは常に首を振って周囲を確認し、ボールを受ける前に次のプレーを決めておくという習慣を身につけました。
この習慣が、プロの舞台でも彼の大きな武器となったのです。
中盤の深い位置からでも前線へ的確なパスを供給し、時には相手を出し抜くような鋭いドリブルも披露。
セスクのドリブルは派手さはありませんが、非常に効率的でした。
相手が詰めてきたタイミングで一歩目のスピードで抜き去り、スペースを作り出してパスコースを開く。
このシンプルだが効果的なドリブルが、セスクの多彩な攻撃パターンを支えていました。
攻撃の起点となり、試合の流れを自在にコントロールする姿は、まさに「司令塔」という言葉がぴったりです。
試合を見ていると、セスクがボールを持った瞬間に空気が変わるのが分かります。
それまで膠着していた試合が、彼の一本のパスで一気に動き出す。
この「試合を変える力」こそが、トップクラスのプレーメーカーの証なのです。
多彩なポジショナル適性 どこでも輝く万能性
セスクは本来センターミッドフィールダーですが、そのプレースタイルの多様性から様々なポジションでプレーしました。
この柔軟性は、彼のサッカーIQの高さと技術の多彩さを証明するものでした。
バルセロナ復帰後には、当時の監督ジョゼップ・グアルディオラによってセンターフォワードとして起用されることもあります。
グアルディオラは常に戦術的な革新を追求する監督であり、セスクの能力を最大限に活かす方法を模索していました。
これは「偽9番」と呼ばれる戦術で、本来のフォワードが下がって中盤に降りてくることでスペースを作り出すプレースタイルです。
セスクは優れた技術とゲームメイク能力を活かし、最前線からチャンスを演出すると共に、自らも得点を重ねました。
この戦術により、相手ディフェンダーはマークする相手を見失い、バルセロナの攻撃陣に自由なスペースを与えることになります。
偽9番としてのセスクは、従来のセンターフォワードとは全く異なる動きをしました。
ペナルティエリア内で待つのではなく、中盤まで下がってボールを受け、そこから味方を走らせる。
この動きにより、左のメッシ、右のペドロやサンチェスがゴール前に飛び込むスペースが生まれ、バルセロナの攻撃は予測不可能なものになりました。
チェルシー時代にはボランチとして本来のポジションに戻り、守備的な役割も担いながら攻撃の起点となります。
ジョゼ・モウリーニョ監督のもとでは、より規律あるポジショニングを要求されましたが、セスクはその中でも自身の創造性を失うことなく、チームの戦術に貢献しました。
どのポジションでも高いパフォーマンスを発揮できる柔軟性が、セスクの大きな強みです。
監督が求める役割を理解し、それを忠実にこなしながらも、自身の特長を活かす。
このバランス感覚が、彼を多くのビッグクラブで必要とされる選手にしたのです。
意外な弱点 PKキッカーとしての苦悩
完璧に見えるセスクにも、意外な弱点があります。
それはペナルティキックです。
試合の流れの中では冷静沈着な判断を下し、どんなプレッシャーの中でも正確なパスを送ることができるセスクが、なぜかPKになると本来の力を発揮できませんでした。
スペイン代表で4回PKを蹴る機会がありましたが、なんと4回とも失敗しています。
2008年ユーロの準々決勝イタリア戦では成功させましたが、2012年ユーロ準決勝のポルトガル戦ではキーパーに止められる(ただしチームは勝利)など、重要な場面でのPKには苦手意識があったようです。
正確無比なパスを供給できるのに、PKは苦手というのはおそらく、試合の流れの中でのプレーと、静止した状態からのキックでは、求められる精神状態が異なるのではないかと思います。
セスクは流れの中での判断は天才的でしたが、PKという「考える時間がありすぎる」状況では、かえってプレッシャーを感じてしまったのかもしれません。
この弱点も含めて、セスク・ファブレガスという選手は魅力的でした。
完璧な選手などいない。弱点があるからこそ、その他の部分での輝きがより際立つのです。
セスク・ファブレガスの経歴
セスク・ファブレガスの経歴はこちらです。
- 2003-2011アーセナルFC
- 2011-2014FCバルセロナ
- 2014-2019チェルシーFC
- 2019-2022モナコ
- 2022-2023コモ1907
セスク・ファブレガスのキャリアは、若くして下した大胆な決断から始まりました。
バルセロナという世界最高峰のクラブを離れる決断、プレミアリーグという未知の舞台への挑戦、そして再びバルセロナへ戻り、さらにチェルシーへ移籍する。
その選択の一つ一つが、彼のサッカー人生を形作ってきました。
FCバルセロナ(下部組織)
1997年、10歳のセスクはFCバルセロナの下部組織「ラ・マシア」に入団。
地元カタルーニャ出身の彼にとって、バルセロナでプレーすることは夢の実現でした。
ラ・マシアでの6年間は、セスクのサッカー選手としての土台を形成する重要な期間でした。
朝から晩まで、ボールを蹴り、戦術を学び、バルセロナのサッカー哲学を吸収します。
狭いスペースでのパス回し、素早いポジションチェンジ、常にボールを保持し続けるポゼッションサッカー。
これらの要素が、セスクの血肉となっていきました。
同じ世代には、後に世界最高の選手となるリオネル・メッシ、バルセロナとスペイン代表の中心選手となるジェラール・ピケがいました。
彼らは共に成長し、時にはライバルとして競い合い、時には親友として支え合いました。
この関係性は、後に彼らが同じチームでプレーする際に、抜群のコンビネーションとして結実することになります。
2003年のU-17世界選手権では、スペイン代表のキャプテンとしてチームを準優勝に導き、大会得点王と最優秀選手に選ばれます。
この大会でのパフォーマンスは、世界中のビッグクラブのスカウトたちの目に留まりました。
特に、若手育成に定評のあるアーセナルのアーセン・ヴェンゲル監督は、セスクの才能に強く惹かれていました。
しかし、バルセロナのトップチームへの道は険しいもの。
シャビ・エルナンデス、アンドレス・イニエスタという同じポジションの偉大な先輩たちが既に君臨しており、16歳のセスクが彼らを押しのけてレギュラーポジションを獲得するのは現実的ではありませんでした。
待つか、出るか。
セスクは後者を選びます。
出場機会を求め、自らの成長を最優先に考え、愛するバルセロナを離れる決断を下したのです。
この決断が、彼のキャリアを大きく変えることになります。
アーセナルFC
2003年9月、16歳のセスクはアーセナルへの移籍を決断しました。
移籍金はわずか50万ポンド(当時約1億円)。
後に世界トップクラスのミッドフィールダーとなる選手が、この金額で獲得できたことは、アーセナルにとって世紀の大成功となりました。
アーセン・ヴェンゲル監督は、ジョージ・ウェア、リリアン・テュラム、ティエリ・アンリ、パトリック・ヴィエラなど数多くの名選手を育て上げた名将。
また、ストイコビッチやデニス・ベルカンプといったファンタジスタの活かし方も熟知していました。セスクにとって、これ以上ない環境が整っていたのです。
【2003-04シーズン】最年少出場記録
移籍初年度、セスクはリーグカップのロザラム戦でデビューを果たし、アーセナル史上最年少出場記録を更新します。
その後、チャンピオンズリーグのローゼンボリ戦でヨーロッパデビューも果たしました。
わずか16歳での快挙でした。
このシーズン、アーセナルは「無敗優勝」という史上稀に見る偉業を達成します。
プレミアリーグ38試合で26勝12分0敗。
この歴史的なシーズンの一員として、セスクはベンチから先輩たちの雄姿を見守り、多くのことを学んだに違いありません。
【2004-05シーズン】レギュラー定着
2年目、わずか17歳でセスクはプレミアリーグのレギュラーに定着し、33試合に出場。
同い年でバルセロナユースで共に過ごしたリオネル・メッシがまだトップチームでのデビューを果たしたばかりの時期に、セスクは既にプレミアリーグの中心選手として活躍していました。
この事実は、セスクの決断が正しかったことを証明しています。
プレミアリーグは、世界で最もフィジカルコンタクトが激しいリーグとして知られています。
技術だけでなく、強靭なフィジカルと精神力が求められる過酷な環境で、セスクは持ち前の技術とインテリジェンスで、体格で劣る相手をも上回るパフォーマンスを発揮しました。
【2005-06シーズン】背番号4の継承
このシーズン、アーセナルのレジェンドであるパトリック・ヴィエラがユヴェントスへ移籍。
ヴィエラは長年アーセナルの中盤を支配し、キャプテンとしてチームを牽引してきた偉大な選手でした。
彼が背負っていた背番号4を、セスクが受け継ぐことになります。
背番号4は、アーセナルにおいて特別な意味を持つ番号です。
伝統的にセンターバックやミッドフィールダーの中心選手が背負う番号であり、チームの要としての責任が伴います。
18歳のセスクにとって、この責任は重圧でもありましたが、同時に自信の表れでもありました。
このシーズン、アーセナルはチャンピオンズリーグ決勝まで進出します。
決勝の相手はバルセロナ。
セスクにとって、かつて所属したクラブとの対戦は複雑な心境だったはずです。
試合は1-2でバルセロナが勝利し、セスクは初のチャンピオンズリーグタイトル獲得はなりませんでした。
しかし、18歳でヨーロッパ最高峰の舞台、しかも決勝に立ったことは、彼の成長をさらに促すことになります。
【2006-07シーズン】アシスト王に輝く
セスクはこのシーズン、プレミアリーグで13アシストを記録し、アシスト王に輝きます。
わずか19歳でのアシスト王獲得は、彼の才能が本物であることを証明しました。
また、「2006年UEFA.comユーザーが選ぶベストイレブン」に唯一の10代として選出。
ヨーロッパ全体で最も優れた選手たちの中に、19歳のセスクが選ばれたのです。
この時点で、彼は既に世界トップクラスのミッドフィールダーとして認識されていました。
セスクのプレーは、試合を重ねるごとに成熟していきます。
若さゆえの勢いだけでなく、冷静な判断力と戦術理解が加わり、彼のプレーはより洗練されたものになっていきました。
【2007-08シーズン】成長し続ける司令塔
このシーズン、セスクはリーグ戦で7得点13アシストを記録。
得点力とアシスト力の両方を兼ね備えた、完成度の高いミッドフィールダーへと成長していました。
アーセナルは若手中心のチーム構成で、ティエリ・アンリがバルセロナへ移籍した後、攻撃の中心はセスクとエマニュエル・アデバヨール、ロビン・ファン・ペルシーへと移っていきます。
セスクは彼らへ的確なパスを供給し、アーセナルの攻撃を牽引しました。
【2008-09シーズン】史上2番目の若さでキャプテンに就任
2008年11月、21歳の若さでセスクはアーセナルのキャプテンに就任します。
これはトニー・アダムスに次ぐクラブ史上2番目の若さでのキャプテン就任でした。
キャプテンという重責を担いながらも、セスクはチームを牽引し続けました。
リーグ戦では36試合に出場し、3得点17アシストという素晴らしい成績を残します。
17アシストは、彼のプレミアリーグでのシーズン最多アシスト記録となりました。
しかし、このシーズンもアーセナルは無冠。
チャンピオンズリーグではベスト8、プレミアリーグでは4位。才能あふれる若手たちを擁しながら、タイトルには手が届かない状況が続いていました。
【2009-10、2010-11シーズン】タイトル獲得への渇望
セスクはアーセナルでの最後の2シーズンも、変わらず高いパフォーマンスを発揮し続けます。
2009-10シーズンには19得点17アシスト、2010-11シーズンには16試合ながら3得点7アシストを記録しました。
しかし、アーセナルは相変わらずタイトルに届きません。
プレミアリーグでは常に上位に食い込むものの、マンチェスター・ユナイテッドやチェルシーの壁を越えることができませんでした。
この期間、バルセロナは黄金時代を迎えていました。
グアルディオラ監督のもと、チャンピオンズリーグを3度制覇し、リーガ・エスパニョーラも複数回優勝。
かつてのチームメイトであるメッシやイニエスタが、次々とタイトルを獲得する姿を、セスクは遠くから見ていました。
アーセナルでの8シーズンで、セスクは212試合に出場し35得点を記録。
プレミアリーグのタイトルこそ獲得できませんでしたが、この期間にセスクは世界トップクラスのミッドフィールダーへと成長を遂げたのです。
彼なしでは、アーセナルの攻撃は成立しませんでした。
それほどまでに、セスクはチームにとって不可欠な存在だったのです。
FCバルセロナ
2011年8月、セスクはアーセナルから移籍し、バルセロナへ復帰しました。
移籍金は最大3900万ユーロ(約43億円)と言われ、愛着のある背番号4を受け継ぎました。
かつてバルセロナのレジェンド、グアルディオラが背負っていた同じ番号を付けたのです。
【2011-12シーズン】偽9番としての新たな挑戦
バルセロナ復帰1年目、セスクは48試合に出場し15得点を記録します。
しかし、彼のポジションは悩ましい問題でした。
当時のバルセロナは4-3-3のフォーメーションを採用しており、中盤はシャビ、イニエスタ、セルヒオ・ブスケッツというバルセロナユース出身の完璧な布陣。
成長したセスクといえども、この3人を押しのけてスタメンを獲得するのは容易ではありませんでした。
シャビは31歳ながら依然として世界最高のレジスタであり、イニエスタは27歳で全盛期。
ブスケッツは23歳で守備的ミッドフィールダーとして不動の地位を築いていました。
そこでグアルディオラ監督が考案したのが、セスクをセンターフォワードで起用する戦術。
ゲームメーカーをセンターフォワードに配置する「偽9番」というこの戦術は、セスクの特性を最大限に活かすものでした。
セスクが中盤に下がってボールを受けることで、相手センターバックはついて来るべきか、それともポジションを保つべきか、判断に迷います。
セスクについて行けば、そのスペースに左のメッシ、右のペドロやダビド・ビジャが飛び込んできます。
ポジションを保てば、セスクがフリーでボールを持ち、そこから決定的なパスが飛んできます。
どちらを選んでも、相手は不利な状況に追い込まれるのです。
このシーズン、メッシはリーガ・エスパニョーラで50ゴールという前人未到の記録を達成。
セスクの存在が、メッシの歴史的快挙を支えていたのです。
バルセロナはコパ・デル・レイ、UEFAスーパーカップ、クラブワールドカップを制覇しました。
【2012-13シーズン】更なる進化
セスクは2年目も42試合に出場し11得点を記録。
偽9番としてのプレーにも慣れ、得点とアシストの両面でチームに貢献しました。
カンテラで共に育ったメッシやピケとの連携は抜群で、彼らは互いの性格もプレースタイルも熟知しており、言葉を交わさなくても意思疎通ができました。
目と目で合図を送り合い、タイミングを計り、完璧なパスワークを披露する。
その様子は、まるでテレパシーで会話しているかのようでした。
このシーズン、バルセロナはリーガ・エスパニョーラを100得点で優勝。
セスク、メッシ、イニエスタ、シャビ、ペドロらが織りなす攻撃は、相手チームにとって悪夢のようなものでした。
【2013-14シーズン】最後のシーズン
セスクのバルセロナ最終シーズンは、36試合に出場し8得点を記録します。
しかし、チーム状況は変化していました。
グアルディオラ監督が退任し、ティト・ビラノバ、そしてヘラルド・マルティーノと監督が変わる中で、チームの戦術も変化していきました。
セスクは依然として高いパフォーマンスを発揮していましたが、本来のセンターミッドフィールダーとしてのポジションで常時出場することは難しい状況でした。
また、シャビの後継者として期待されていたものの、既にイニエスタがその役割を果たしており、セスクの立ち位置は微妙なものとなります。
バルセロナでの3シーズンで、セスクは96試合に出場し28得点を記録。
リーガ・エスパニョーラ優勝、コパ・デル・レイ優勝、UEFAスーパーカップ、クラブワールドカップなど数々のタイトルを獲得し、選手として更なる成長を遂げました。
しかし、セスクは新たな挑戦を求めていました。
本来のポジションで、チームの中心として、もう一度プレーしたい。その思いが、彼を再びプレミアリーグへと向かわせることになります。
チェルシーFC
2014年6月、セスクはバルセロナからチェルシーへ移籍しました。
移籍金は約3300万ユーロ(約45億円)。
かつてのライバルクラブへの移籍は物議を醸しましたが、セスクにとっては新たな挑戦であり、本来のポジションでプレーできる機会でした。
【2014-15シーズン】ついに掴んだプレミアリーグタイトル
チェルシー加入初年度、セスクは34試合に出場し3得点を記録。
得点数こそ控えめでしたが、彼の真価はアシストにありました。
リーグ戦で18アシストを記録し、チームのプレミアリーグ優勝に大きく貢献したのです。
チェルシーでは、長年中盤の要として君臨したフランク・ランパードが退団した直後でした。
その穴を埋めるという重責を背負いながらも、セスクはジョゼ・モウリーニョ監督のもとで本来のボランチのポジションに戻り、持ち前の能力を存分に発揮しました。
モウリーニョ監督は戦術家として知られ、守備的なサッカーを志向することが多い監督です。
しかし、セスクの加入により、チェルシーは攻守のバランスが取れたチームへと進化します。
セスクが中盤からゲームをコントロールし、ディエゴ・コスタやエデン・アザールへ決定的なパスを供給する。
この攻撃パターンが、チェルシーに多くの勝利をもたらしました。
アーセナル時代には届かなかったプレミアリーグのタイトルを、ついに手にすることができたのです。
セスクがトロフィーを掲げる姿は、彼の長年の夢が叶った瞬間でした。
【2015-16、2016-17シーズン】苦難と復活
2年目のシーズンは、チーム全体が不調に陥り、セスクも本来のパフォーマンスを発揮できませんでした。
モウリーニョ監督は途中で解任され、チームは混乱状態に陥ります。
しかし、3年目に就任したアントニオ・コンテ監督のもとで、セスクは復活を遂げました。
コンテ監督は3-4-3のフォーメーションを採用し、セスクをインサイドハーフとして起用。
このポジションは、セスクの攻撃的な才能と守備的な役割の両方を活かすことができるものでした。
2016-17シーズン、チェルシーは再びプレミアリーグを制覇します。
セスクは30試合に出場し5得点を記録。
2度目のプレミアリーグタイトル獲得は、彼がチェルシーにとって不可欠な存在であることを証明しました。
【2017-18、2018-19シーズン】ベテランとしての貢献
セスクは30代に入り、ベテランの域に達していました。
出場時間は減少しましたが、ピッチに立てば相変わらず高いパフォーマンスを発揮。
経験豊富なセスクの存在は、若手選手たちにとって大きな支えとなっていました。
2018-19シーズンには、ヨーロッパリーグ優勝を経験。
決勝のアーセナル戦では、かつて自身がプレーしたクラブを相手に4-1で勝利し、タイトルを獲得しました。
複雑な心境だったはずですが、セスクはプロフェッショナルとして全力でプレーしました。
チェルシーでは5シーズンにわたって138試合に出場し15得点を記録しました。
得点数こそ抑えられていますが、アシスト数は群を抜いており、チームの攻撃を支える司令塔として君臨し続けたのです。
プレミアリーグ2回、FAカップ1回、リーグカップ1回、ヨーロッパリーグ1回の優勝を経験し、イングランドでのキャリアに華を添えました。
ASモナコ
2019年1月、セスクはフリートランスファーでフランスのASモナコへ移籍します。
32歳になっていたセスクにとって、新たなリーグでの挑戦は刺激的なものでした。
モナコでは、若手選手たちの育成を手伝いながら、自身も中盤の要としてプレーします。
68試合に出場し4得点を記録。
リーグ・アンの舞台で、セスクは経験と技術を若手たちに伝えながら、チームの安定に貢献しました。
モナコは若手育成で知られるクラブであり、キリアン・エムバペやファビーニョ、ベンヤミン・メンディなど多くのスター選手を輩出してきました。
セスクの存在は、若手たちにとって最高の教科書。
練習での姿勢、試合での判断、プロフェッショナルとしての振る舞いなど、全てが若手たちの手本となったのです。
コモ1907
2022年7月、セスクはイタリアのセリエBのコモへ移籍。
35歳になっていたセスクは、キャリアの最終章を迎えようとしていました。
コモでは17試合に出場し、プレーヤーとしての最後の時間を過ごします。
若手選手たちを指導しながら、自身もピッチに立ち続ける。
その姿は、サッカーへの純粋な愛を感じさせるものでした。
2023年7月1日、セスク・ファブレガスは現役引退を発表。
バルセロナのカンテラから始まり、アーセナル、バルセロナ、チェルシー、モナコ、コモと渡り歩いた華麗なるキャリアは、幕を閉じました。
指導者としての新たな道
現役引退と同時に、セスクはコモのBチームとU-19チームの監督就任を発表します。
選手から指導者へ、新たなキャリアをスタートさせたのです。
2023-24シーズンには、トップチームのアシスタントコーチを務めました。
そして2024年7月、わずか37歳でトップチームの監督に就任。
これは、イタリアサッカー界でも異例の若さでの監督就任でした。
監督としてのセスクは、選手時代の経験を存分に活かしています。
フレキシブルな戦術、ボール保持を重視したビルドアップ、攻撃的なサッカー。セスクのサッカー哲学が、コモのプレースタイルに色濃く反映されています。
2024-25シーズン、コモはセリエBからセリエAへ昇格しました。
そして、セスクの采配のもと、セリエAの舞台で戦っています。
若手指導者として、セスクは既にイタリアサッカー界で注目を集めているのです。
将来的には、ラ・リーガやプレミアリーグのビッグクラブでの監督就任も期待されているようです。
バルセロナやアーセナル、チェルシーのベンチに座る日が来るかもしれません。
選手時代に培った経験と知識、そして人脈を活かし、セスクは指導者としても成功を収めることでしょう。
スペイン代表での栄光 黄金世代の中心として
セスク・ファブレガスのキャリアを語る上で、スペイン代表での活躍を外すことはできません。
彼はスペイン代表として、2006年、2010年、2014年の3度のワールドカップに出場し、通算110試合に出場して15得点を記録しました。
しかし、数字以上に重要なのは、彼がスペイン黄金時代の中心選手として、歴史的な偉業に貢献したことです。
2008年のユーロ、2010年のワールドカップ、2012年のユーロという3大会連続優勝は、サッカー史上初の快挙でした。
2008年ユーロ クアトロ・フゴーネスの革新
2008年のユーロは、スペイン代表にとって転換点となる大会でした。
ルイス・アラゴネス監督のもと、スペインは革新的な戦術を採用しました。
それが「クアトロ・フゴーネス(4人の創造主)」です。
イニエスタ、シャビ、セスク、ダビド・シルバという4人の司令塔を同時に起用するという、常識を覆す布陣。
通常、チームに司令塔は1人か2人。それを4人同時に起用するというのは、守備力の低下を招くリスクがありました。
しかし、アラゴネス監督の考えは違いました。
ボールを保持し続ければ、相手は攻撃できない。
4人の司令塔が絶え間なくパスを回し続けることで、相手はボールに触ることすらできなくなる。
この「究極のポゼッションサッカー」が、スペインの新たな武器となったのです。
グループリーグでは、ロシア、スウェーデン、ギリシャを相手に3連勝。
準々決勝のイタリア戦は、0-0のまま延長戦へと突入し、PK戦へともつれ込みました。
このPK戦で、セスクは5人目のキッカーとして登場します。
両チーム4人ずつが蹴り終わった時点で3-3。次を決めた方が勝利するという、究極のプレッシャーの中、セスクは冷静にゴール右隅へ蹴り込みました。
スペインのベスト4進出が決まった瞬間でした。
準決勝のロシア戦では3-0で勝利。
そして決勝のドイツ戦では、クアトロ・フゴーネスの4人が先発し、フェルナンド・トーレスのゴールで1-0の勝利を収めました。
スペインにとって、1964年以来44年ぶりのビッグタイトル獲得でした。
この大会で、セスクは世界にその名を轟かせます。
わずか21歳にして、ヨーロッパチャンピオンの一員となったのです。
2010年ワールドカップ 歴史的な初優勝へのアシスト
2010年の南アフリカワールドカップは、スペインにとって悲願の初優勝がかかった大会でした。
ビセンテ・デル・ボスケ監督のもと、スペインは優勝候補筆頭として大会に臨みます。
しかし、グループリーグ初戦のスイス戦で、スペインはまさかの0-1敗北。
優勝候補としてのプレッシャーが、チームを萎縮させたのです。
しかし、その後のホンジュラス戦、チリ戦で勝利し、何とかグループリーグを突破しました。
決勝トーナメントに入ると、スペインは本来の力を発揮し始めます。
ポルトガル戦1-0、パラグアイ戦1-0、ドイツ戦1-0と、全て1点差の辛勝ながら、着実に勝ち進んでいきました。
この大会では、シャビ・アロンソの台頭により、セスクの先発出場機会は限られていました。
しかし、控えとして重要な役割を果たします。
特に決勝のオランダ戦では、セスクの存在が勝利の鍵となりました。
決勝は0-0のまま延長戦へ突入。
両チームとも疲労が蓄積し、ミスが目立ち始めていました。
延長後半11分、デル・ボスケ監督はセスクをピッチに送り込みます。
そしてその5分後、歴史的な瞬間が訪れました。
セスクがペナルティエリア内でボールを受け、イニエスタへパス。イニエスタのボレーシュートがゴールネットを揺らしたのです。
結果的に1-0で、スペインの初優勝が決まった瞬間でした。
決勝ゴールのアシストという、これ以上ない形でセスクは優勝に貢献。
ワールドカップという最高の舞台で、最も重要なアシストを記録したのです。
2012年ユーロ 史上初の3連覇達成
2012年のユーロは、スペインにとって史上初の3大会連続優勝がかかった大会。
既に2008年ユーロ、2010年ワールドカップを制覇していたスペインは、この大会で歴史を作ることができるのか。世界中が注目していました。
グループリーグ初戦のイタリア戦は、1-1の引き分けに終わります。
しかし、セスクがこの試合で同点ゴールを決め、チームを救いました。
その後のアイルランド戦、クロアチア戦で勝利し、グループリーグを首位通過を果たします。
準々決勝のフランス戦では2-0で勝利。
そして準決勝のポルトガル戦は、再び0-0のままPK戦へともつれ込みました。
このPK戦で、セスクは再び最後のキッカーとして登場。
両チーム4人ずつが蹴り終わった時点で3-2でスペインがリード。
セスクが決めれば、スペインの決勝進出が決まる状況でした。
4年前のユーロと同じ状況。
しかし、セスクは動じません。
冷静にゴール左隅へ蹴り込み、スペインの決勝進出を決めたのです。
重圧のかかる場面で、再び期待に応えました。
決勝では再びイタリアと対戦。
この試合、デル・ボスケ監督は大胆な采配を振るいます。
セスクをセンターフォワードとして起用し、周囲にシャビ、シャビ・アロンソ、イニエスタ、ダビド・シルバを配置する「Sボックス」と呼べるフォーメーションを採用したのです。
この戦術は完璧に機能します。
イタリア守備陣は、誰をマークすべきか混乱し、スペインは自由にパスを回し続けました。
結果は4-0の完勝。
スペインは史上初の3大会連続優勝という偉業を成し遂げたのです。
セスクは、この黄金時代の中心選手として、3つのタイトル全てに貢献。
特に、PK戦での冷静さ、決勝でのアシスト、偽9番としての役割など、様々な形でチームに貢献したことは特筆に値します。
2014年ワールドカップ そして代表引退へ
2014年のブラジルワールドカップは、スペインにとって王朝の終わりを告げる大会となりました。
グループリーグで、オランダに1-5、チリに0-2と大敗し、まさかのグループリーグ敗退。
世代交代の波が押し寄せ、黄金世代の多くが代表から退いていきました。
セスクも2016年に代表引退を表明。
27歳という若さでの引退は、多くのファンに惜しまれました。
しかし、セスクはスペイン代表史上最も輝かしい時代を支えた選手の一人として、その名を永遠に記憶されることになります。
3大会連続優勝という史上初の偉業。その中心にいたことは、セスクにとって何よりの誇りでしょう。
まとめ セスク・ファブレガスが残した遺産
セスク・ファブレガスは、類まれなるパスセンスと視野の広さ、そして卓越したゲームメイク能力で、現代サッカー史に輝かしい足跡を残しました。
16歳での大胆な決断、アーセナルでの飛躍、バルセロナでの凱旋、チェルシーでのタイトル獲得、そしてスペイン代表での栄光。彼のキャリアは、まるで映画のように劇的で、感動的なものでした。
プレミアリーグ最速100アシスト、3大会連続国際タイトル獲得、複数ポジションでの活躍など、彼の実績は枚挙にいとまがありません。
セスクは、司令塔というポジションの可能性を広げた選手でもありました。
従来の司令塔は、中盤でパスを配給するだけの存在。
しかし、セスクは最前線でもプレーし、得点も記録し、守備にも貢献する。このマルチな能力が、現代サッカーにおける司令塔の新しい形を示したのです。
現在は監督として新たなキャリアを歩み始めたセスク・ファブレガス。
選手時代に培った経験と知識を若い選手たちに伝え、次世代のスター選手を育てています。
コモでの成功は、指導者としての才能も本物であることを証明しつつあります。
彼のサッカー人生は、才能だけでなく、決断力、適応力、そして常に前進し続ける姿勢の重要性を教えてくれます。
16歳でバルセロナを離れる決断、アーセナルでの成長、バルセロナでの偽9番への適応、チェルシーでの新たな挑戦。その全てが、セスクの成功につながりました。
セスク・ファブレガスという名前は、これからも世界中のサッカーファンの記憶に刻まれ続けることでしょう。
プレミアリーグのピッチで魔法のようなパスを送り続けた姿、バルセロナで偽9番として新たな戦術を体現した姿、スペイン代表で歴史的な優勝に貢献した姿。
その全てが、サッカー史に永遠に残る名場面です。
そして今、監督として新たな歴史を刻み始めたセスク。
彼のサッカー人生は、まだ終わっていません。
次の章が、どのような物語を紡ぐのか。世界中のサッカーファンが、期待を込めて見守っています。


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