リリアン・テュラムのプレースタイルと経歴を解説!守備の哲人と言われる真髄

サッカー界において「守備の哲人」「鉄人」と称され、フランス代表として142試合に出場した記録を持つリリアン・テュラム。

センターバックとサイドバックの両方を高いレベルでこなし、1998年ワールドカップ優勝の立役者として歴史に名を刻んだ偉大なディフェンダーです。

本記事では、テュラムのプロフィール、独特なプレースタイル、そして輝かしい経歴について詳しく解説します。

リリアン・テュラムのプロフィール

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リリアン・テュラムのプロフィール
  • 国籍:フランス
  • 生年月日:1972年1月1日
  • 身長:185㎝
  • ポジション:DF(ディフェンダー)

リュディー・リリアン・テュラム=ユリアン(Ruddy Lilian Thuram-Ulien)は新年を迎えてわずか20秒後に生まれ、1972年に生まれた最初の子供としてメディアが取材に訪れ、新聞記事に掲載されたという興味深いエピソードを持っています。

幼少期はピアノにも親しみ、当初の夢はカトリックの神父になることでした。

9歳の時に母親がフランス本土に職を得て、パリ近郊のフォンテーヌブローに移住。

この地でサッカーと出会い、移民の子供たちで構成されたクラブでキャリアを開始しました。

夢は神父からフットボーラーへと変わっていったのです。

(センターバック、右サイドバック)

リリアン・テュラムのプレースタイル

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リリアン・テュラムのプレースタイル
  • 1対1にめっぽう強い。
  • 知的で冷静沈着
  • 常に的確なポジションを取っている。
  • 先を読む能力があり、無謀なタックルに頼ることなく、危険な芽を早い段階で摘み取る
  • 空中戦も強い
  • ディフェンスライン全体を統率するリーダーシップを持っている。
  • サイドバックにも適応できる。
  • 3バックや4バックなどの戦術にも柔軟に対応できる戦術理解度の高さ。

今まで完成されたディフェンダーは数多くいましたが、テュラムもその一人と言えます。

守備における完璧さ

テュラムのプレースタイルの根幹は、完璧を追求する守備哲学にありました。

身体能力、技術、フィジカル、スタミナ、戦術眼、読みの鋭さ、マークの厳しさなど、ディフェンダーに必要な要素を全て最高レベルで兼ね備えていました。

特筆すべきは1対1の場面での無類の強さです。

相手フォワードとの勝負において負けることがほとんどなく、屈強なフィジカルとスピードを活かした的確なポジショニングで相手の攻撃を封じ込めていました。

また、相手の動きを読む能力が卓越しており、危険な芽を早い段階で摘み取ることもできます。

これにより、無謀なタックルに頼らず、空中戦では圧倒的な強さを誇っていました。

つまりテュラムは知的な守備でチームを守り続けることができたのです。

センターバックとしての統率力

クラブチームでのメインポジションは主にセンターバックだったのですが、ここでテュラムが発揮したのは、単なる個人の守備力だけではなく、ディフェンスライン全体を統率するリーダーシップでした。

チームの守備ラインを統率するために発するテュラムの指示は的確なので、チームメイトからの信頼も絶大。

そのため、コンパクトな陣形を保った守備ブロックを常に形成できていたんです。

特にユベントス時代には、ブッフォンやカンナヴァーロといった世界最高クラスの選手たちとともに、史上最強とも言える守備陣を形成しました。

サイドバックとしての革新性

フランス代表では主に右サイドバックとしてプレーし、ここで真の革新性を発揮しました。

もともとの守備能力をベースとして、スピードを活かした機を見たオーバーラップを繰り出し、攻撃にも大きく貢献。

テュラムのサイドバックとしてのプレーは、守備的でありながら攻撃的という一見矛盾する要素を高次元で融合させたものでした。

現代サッカーにおけるサイドバックとセンターバックの両方を高いレベルでこなす選手の先駆者的存在として、多くの後進選手の模範となっています。

このテュラムのプレーは従来のサイドバックの概念を大きく違っていたため、現代サッカー戦術の発展に大きな影響を与えました。

特に、戦術的柔軟性という点で、現代の3バック、4バックシステムの両方に対応できる能力は時代を先取りしていました。

リリアン・テュラムの経歴

リリアン・テュラムの経歴はこちらです。

  • 1991-1996
    ASモナコ
  • 1996-2001
    パルマ
  • 2001-2006
    ユベントス

  • 2006-2008
    バルセロナ

もともと知的で家族思いの印象があるテュラムでしたが、バルセロナから引退を表明した際、より一層人柄の良さを感じましたね。

ASモナコ時代

1988年にフランスの名門ASモナコにスカウトされ、1990年にプロデビューを果たしました。

当時の監督アーセン・ベンゲルの指導の下、元々はミッドフィールダーだった彼をディフェンダーにコンバート。

次第に身体能力の高さと1対1の場面での勝負強さが注目され始めました。

パルマ時代の黄金期(1996-2001)

1996年にセリエA・パルマACへ移籍します。

ここで世界最高の守備トリオの一翼を担いました。

イタリア代表GKジャンルイジ・ブッフォンとDFファビオ・カンナヴァーロとのトリオは世界最高の守備トリオと呼ばれ、チームの成功に大きく貢献。

1998-99シーズンにはUEFAカップ優勝とコッパ・イタリア優勝の2冠を獲得しました。

ユベントス時代の栄光(2001-2006)

2001年に同僚ブッフォンとともにユベントスへ移籍します。

2001-02シーズンと2002-03シーズンの連覇を果たしました。

2004年にはパルマでコンビを組んだカンナヴァーロが加入し、パルマ時代のトリオが再結成されます。

すると再び、2004-05シーズンと2005-06シーズンでスクテッドを獲得。

しかし、2006年のカルチョ・スキャンダルによりユベントスが降格処分を受けることになりました。

バルセロナ時代と現役引退(2006-2008)

カルチョ・スキャンダル後、テュラムはユベントスでの同僚ジャンルカ・ザンブロッタとともにFCバルセロナへ移籍します。

このときのバルセロナは、ロナウジーニョ、エトー、メッシといったスーパースターたちのいる勢いのあるチームでしたが、年齢的な衰えと怪我の影響もあり、バルセロナでの2年間は期待されたほどの活躍はできませんでした。

それでも、その経験と知識でチームに貢献。

若い選手たちの良き指導者的存在となっていました。

EURO2008後、パリ・サンジェルマン移籍が確実視されていましたが、メディカルチェックで心臓の問題が疑われます。(後に誤診と判明)

家族、特に母親を安心させるため、2008年8月1日に現役引退を正式表明。

この判断は、家族を第一に考える彼の人柄を表すものでした。

フランス代表での輝かしい記録

テュラムを語る上でフランス代表の話も外せません。

それについてお話していきます。

フランス代表の最多出場記録保持者だった

今はウーゴ・ロリスに更新されていますが、テュラムはもともと、同国代表の歴代最多出場記録保持者でした。

1994年8月17日のチェコ戦でフランス代表初出場を果たし、2008年までに142試合に出場。

フィールドプレーヤーとしては、この出場記録は偉大な記録と言え、フランス代表にとってテュラムがいかに必要な選手だったかをうかがえます。

1998年ワールドカップでの伝説

自国開催の1998年ワールドカップでは、準決勝のクロアチア戦で劇的な活躍を見せました。

オフサイドの取りそこないにより先制を許しましたが、その直後に同点ゴールを自ら決めます。

さらに69分には20メートルの距離から見事な逆転ゴールを決めて、フランスを初の決勝進出に導きました。

大会を通じて守備の要として活躍し、ベストディフェンダーに選ばれ、ブロンズボール賞を受賞しました。

その他の国際大会での活躍

2000年のEURO2000では優勝に貢献。

2006年のドイツワールドカップでは34歳の高齢ながら復帰し、全試合に出場して準優勝に導きました。

特に準決勝のポルトガル戦では、C・ロナウドを完全に封じる素晴らしい守備を見せ、マン・オブ・ザ・マッチに選ばれました。

まとめ

リリアン・テュラムは、その卓越した守備技術と戦術眼により、サッカー史上最高のディフェンダーの一人として語り継がれています。

センターバックとサイドバックの両方を世界最高レベルでこなし、フランス代表の黄金時代を支えた偉大な選手として、現在でも多くのサッカーファンに愛され続けています。

彼の遺産は、単なる記録や栄誉にとどまりまらず、現代サッカーの戦術発展への貢献や後進への指導、そして社会への貢献活動など、多方面にわたってその影響は続いています。

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